もしあなたの家族の一人が瀕死の病に罹ったとしたら、あなたはその家族の一人が快復するまで看護をするのではあるまいか。愛するものであれば、誰でもそうするのだが、突然、見ず知らずの人が目の前に倒れていた場合、あなたはどうするだろうか。もちろん、すぐにでも助けの手を差し伸べるに違いない。だが、その人を車に乗せ、病院まで付き添い、寝ずの看病をしてまで、その人を見守るというのは容易いことではない。ところが、それをした人物がいる。それがルカの福音書十章で、主イエスが譬え話としてお話になった「良きサマリヤ人」であり、私たちの救い主となられたイエスのことなのでもある。
ある人がエリコという町の郊外で、強盗に襲われ、半死半生で倒れていた。ちょうどそこに、「あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った」(33〜35)。
ここに「翌日」とある。僕はそこでハッと気づいた。この親切なサマリヤ人は寝ずの番をしてまで介抱したに違いないということに! というのも、ここに「気の毒に思い」とあるが、これは、腹わたがねじれるほどの痛みを持って憐れむという神様のみが持つ憐れみを意味しているからだ。僕はクリスチャンになって以来、この箇所を数えきれないほど読んでいたが、「翌日」という言葉に目が留まったのは今回が初めてであった。礼拝メッセージを準備しながら、「翌日」という言葉を噛みしめ、主がいかに愛に富んだお方であるかを、夜を徹して怪我人を介抱するサマリヤ人の献身を通して知らされたのである。
この例えを自分に当てはめてみれば、罪のゆえに裁かれ、死を待つしかなかったこの者のために、主ご自身がご自分の命に代えてまでも、私を救おうと自ら進んで十字架で罪の裁きを受けて下さったことによって救われたと言える。「翌日」という言葉の重さに、僕は改めて神の一方的な愛と憐れみの豊さに感涙せずにいられなかった。神の愛の何と深く、限りなくことであろうかと!
Comments