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Rev. Tsukasa Sugimura

あなたこそ私の誉れ、喜びです

 今年の私達の教会の年間聖句は、「あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである」(1テサロニケ 二・20)である。さあこの紹介をしよう。

 この説明にピッタリするのがダビデとヨナタンの関係である。ヨナタンはユダヤの王サウルの子、王子であり、皆から信頼されていた。その彼の前に敵ペリシテの巨人ゴリアテが立ちはだかる(サムエル上17章)。「誰か一人を選んで俺と一戦を交える者はいないか」と迫る。その声に兵は震え上がった。実は本来なら、ヨナタンの出番であろう。彼は以前も敵に対して従者を連れて一人で戦いに出て行き、一気に20人を倒したほどだ。だが、サウルは「お前が死んだら、誰がわしの後継者になるのか」と言って止めたのではないかと想像できる。

 その頃、ダビデは戦場でゴリアテの声を聞いた。彼は、神が彼と共におられ、過去にも野獣も倒す経験をしていたこともあり、神が自分を遣わしておられると確信し、「王様、私を遣わしてください」と申しでる。もちろん彼に恐れがないはずがないであろうが、彼を行かせたのは神であった。だからダビデは「この戦いは主の戦いだ」と叫びつつ、ひとりゴリアテの前に出てゆくのであった。

 だが考えても見よ。一国の興廃を決めるような戦いに、無名の羊飼いのダビデが出て行くということを。しかも武器は石投げだ。だからゴリアテは侮った。「俺は犬か」と。一方、ヨナタンはダビデの中に神への揺るぎない信仰を見た。それが自分の信仰とピッタリ結びついた。信仰こそがお互いの心を力強く結ぶ神の知恵だからである。彼にとってゴリアテを倒したダビデは、彼の誉れとなり喜びとなって、ダビデと盟約を結び自分の命のように愛した。後年、ダビデはヨナタンの戦死を聞いて慟哭する。「あなたの愛は男が女を愛する以上のものだった」と。それは信仰のゆえに結ばれた友への心からの哀悼の叫びであった。

 やがて旧約の預言通り、救い主として来られたイエスは、十字架の死に至るまで私たちに仕えてくださった。その歩みが私たちの心を捉え、救いに導いてくださったのだった。それは主にとって、私たち一人一人が神の誉れであり、喜びであったからである。アーバイン教会のお互いも信仰で結ばれている。「あなたこそ私の誉れであり、喜びです」と慕い合い、祈り合う一年でありたい。

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