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お布施で生きるな

 かつて私の母は、私が牧師になると言った時、悲しげに、「おめ、お布施で生きるんでねえよ」と言ったことがある。母は、牧師というのは托鉢で生活をしているお坊さんのように、信者さんの家を巡り、生活に必要な食料などを乞うように、人に無心して生きる職業だと思っていたようだ。確かに牧師はおもに教会員の捧げる献金を糧に生きている。でも、それは聖書で神の命じる生き方であって、「主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである」(1コリント九・14)とある通りである。だから、人が捧げる献金というのは、先ず神に捧げられたものであり、神に養われて生きている。それはお布施でもなければ、決して恥いるようなものではない。

 かつて、エジプトの王に次ぐ地位になっていたヨセフは、飢饉に悩む彼の兄弟たちを助けるために、彼らをエジプトに呼んだ。ある時、エジプト王パロの前に立った兄弟たちは、「職業は何か」と問われた。その時に兄弟たちはヨセフに命じられたように、「しもべらは羊を飼う者です。われわれも、われわれの先祖もそうです」(創世記四七・3)と臆することなく答えている。実は羊飼いはエジプトでは人々から嫌われる職業だったが、兄弟たちは、羊飼いであることを恥じなかった。羊飼いがエジプトでは嫌われても、イスラエルでは立派な仕事であったからである。イスラエルの王ダビデが羊飼いであり、その末裔から救い主が生まれる、というのであれは、どうして羊飼いを恥じることがあろう。むしろ、それを誇りとして生きてきたのがイスラエルの民であったからだ。

 僕は自分が牧師であることを恥じたことはない。主イエスにこそ救いがあるという福音を伝えるに勝る仕事はこの世にはないと信じて、自ら命を注いできたからである。だからと言って、では、いつでもどんな人にも福音を語っているかというと、赤面せざるを得ない。時には家族にさえ語ることを躊躇する時がある。そして、その度ごとに主に申し訳ないと思っては赦しを請うのである。

 お布施で生きてはいないが、神に支えられて生きているのだとすれば、その神に喜んでもらえる生き方をしなければと絶えず思うのである。だから僕は今、母がかつて言った「お布施で生きるな」という言葉を自戒として生きている。

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