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すべてをそぎ落とされても残るもの ③

 この夜、私は初めて、ペテロの信仰告白がマタイ一六章16節で完成したのではなく、後に続く神様の愛と導きの中でペテロが自分の弱さや愚かさに気づき、そんな自分を主イエスが十字架でご自身のいのちを捧げるほどに自分を愛されたことを経験していく中で、「あなたこそ、私を罪から贖い、救ってくださった救い主」「あなたこそ、私のすべてです」という告白に深められていったことを知りました。そして、「教会」は、そのような告白に導かれた者たちの集まりであり、交わりであり、この世のどんな集まりとも一線を画すユニークでスペシャルな集まりであり、パウロの言葉で言えば、「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒二〇・28)であることにあらためて目が開かれました。

 私はかつて北加のペニンスラ教会にいました時に、家を開放してバイブルスタディをしていましたが、そこで救いに導かれた姉妹をつまずかせてしまい、2年ほど教会にも来なくなってしまいました。その時、私は自分を本当に失敗者だと感じ、自分で自分を責め続けました。けれども、その時の牧会者、榊原宣行生から「神様の前に大の字になってすべてをお任せすることです」とのアドバイスをいただき、少しずつ自分の失敗や駄目さから目を離して、十字架のイエス様を見上げて姉妹のために祈るようになり、そんな中で、神様が備えてくださったとしか思えないタイミングで、その姉妹との和解へと導かれ、彼女は教会にも戻って来られました。私には本当に痛い経験でしたが、その後3年間の聖書学院での生活を通して与えられた神様の導きを通して、自分や自分の失敗、駄目さを見続けて自分を責めたり、或いは落ち込むのではなく、そんな私のために十字架にかかってくださった主イエス様をいつも見上げ、愛と赦しで心を満たされて、真の福音に生きていくことの恵みを教えられたのです。

 人間的な頑張りも誇りも傲慢も、自分中心の信心もすべてをそぎ落とされて残るものーその福音の中心であられるイエス・キリストご自身こそが、教会の本質であるということを忘れることなく、今遣わされているこのアーバイン教会で、主が私たちを愛されたように、私たちもまたお互いを愛する教会へとさらに造り替えられていきたい、と心から祈り、願っています。

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