そして、錦織先生ご自身の証しがありました。牧師家庭に育った先生は、成長と共に教会の奉仕も熱心にするようになり、バイブルキャンプなどで、他の先生からも「学(まなぶ)君、よく奉仕してくれるね、ありがとう!」と感謝され、心の中で『ぼくもなかなかよくやってるじゃないか』といい気持ちになっていたそうでした。一方で、4人兄弟の中で育った先生は、すぐ下の弟が自分より社交的で友だちの受けがよく、人気があるのが面白くなく、どうしたらこの弟にぐさっと突き刺さるような言葉を言えるか、を考えるようになっていました。熱心に教会の奉仕をする一方で、どうやって弟をぎゃふんと言わせようかと考えている自分の心の醜さが次第に重荷となり、苦しくなってきたそうでした。苦しくて苦しくて、だれかに相談したい、聞いてもらいたい、そんな思いで、ある時バイブルキャンプの講師で来られた若い先生に告白すると、「若いって、いいねえ~」と受け流されてしまいました。今度は、同じく講師で来ていた年配の牧師先生に、「先生、聞いてください」と話してみると、先生はじっくり話を聞いて下さった後でひと言、「学くん、君、傲慢だね」と言われました。『えっ?!ぼくが傲慢?!だって、こんなに自分を正直に見つめて罪を告白しているのに…』と思ったそうです。その時、先生はこう言われた。「学君、君が自分をどう思うかが大事なんじゃなくて、そんな君のためにイエス様が十字架にかかってくださったことがいちばん大切なことじゃないのかね」。それが錦織青年にとって信仰の大きなターニングポイントとなり、イエス様の十字架の重みと、そこに表されたイエス様の愛で心がいっぱいに満たされたそうでした。
錦織先生は最後にこう言われました。「自分が何をしたか、しなかったか、何ができて何ができなかった」に目を向けているのは福音ではありません。そうではなく、自分がどれほど神様の愛と恵みを必要としているのかに気づき、そして、そんな自分がどれほどイエス様に愛され、心がそのイエス様の愛と恵みでいっぱいに満たされていることを知ること、それが福音です」と。つまり、人間的な頑張りとか、いわゆる、自分の信心深さではなく、それらがすべてそぎ落とされて残るもの、つまり、イエス様ご自身こそが教会の土台です、と。
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