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キリスト教とは ①

更新日:4月11日

 僕は毎朝、祈りの前に日課として通読表に従って聖書を読む。だが、これまで何を読んでいたのかと思うほど気付かされることが多い。今は数多く読むよりも、とにかくじっくり読むようしているからであろう。そして疑問に思う度ごとに註解書を読むが、特に榊原康夫先生のものを読む。その一文である。

 「わたしたちは俗に、旧約聖書から唯一神教が生まれました、キリスト教は旧約聖書に乗っかって生まれました。こう単純に教えられています。これはわたくしは、非常に危険な教えだと思うのです。確かに旧約聖書から唯一神教は生まれました。その中にキリスト教と、ユダヤ教とイスラム教があります。じゃあ、なぜ旧約聖書から生まれた唯一神教を信じながら、こんなにもキリスト教は違うのか。これは、旧約聖書の読み方が丸っきり違うからなんですね。じゃあ、キリスト教の独特な読み方とは何かというと、あのたくさんのことを約束し、預言している旧約聖書を、ある一つの角度からだけ成就したと読む読み方なんです。ですから旧約聖書に書いてあることは全部アーメンです。いつか必ず実現するんですと平板的に機械的に間に受けると、キリストは生まれません。

 キリスト教は “人の子は裁かない”(ヨハネ八・15、一二・47)、そして “わたしを通して貧しい人が福音を知らされている”とおっしゃったイエス様、この方が旧約聖書の実現者だと信じたのであります。つまりは非常にセレクティブに取捨選択して、旧約が予告していることのある面を、これが本当の神様の御旨だと読んだわけなんですね。このような読み方をしないとどうなるかというと、ユダヤ教やイスラム教のように、神様に裁かれないように、いい子、いい子でやりましょうというパリサイ人、律法主義が生まれるほかないのです」。

 僕はこれほど旧約聖書と新約聖書との関係を端的に表した内容を知らない。例えば、旧約の律法について、パウロは「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ三・20)と語る。唯一の神が設けられた完璧な掟なのに、どうしてそれによって神から離れようとする罪の思いが起こるのであろう。実に不思議な言葉だと当初は思っていた。それが、前述のコメントを通して、聖書に対する眼が開かれたような気がする。しばらく、これを深掘りしてゆく。

 

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