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サマリヤの女性 ②

 さて、その女性は昼の十二時頃に井戸に水汲みにやって来た。砂漠地帯の住民は炎天下の昼に外出などしない。涼しい朝夕だけである。だが、その女性がわざわざその時間帯に井戸にやって来たということには理由があったようだ。彼女が人々から後ろ指を指される罪の生活を送っていたと思われるからである。

 それに、ユダヤ人の男性は、当時、公けの場で女性と話はしなかった。ましてや、相手がサマリヤ人の女性であれば尚さらである。にもかかわらず、主イエスは、井戸に水汲みに来たサマリヤの女性に、「水を飲ませてください」と話しかけ、そこから会話を始め、救いに導いている。主は、その人物を通し、その語りかけを通して、周りの人々が心を開くことを心から願っていたからである。たとえ、その人物が罪深い女性であろうと、ユダヤ人に嫌われたサマリヤ人であろうと、この人物に関係なく、主は失われたような一人の人物を求めて福音を伝えていったが、それが救い主イエスの伝道方法であった。主は決して十把ひとからげで私たちを救おうとしているのではないからである。まもなくして、食べ物を買いに町に行っていた主の弟子たちが帰ってきた時、主がサマリヤ人の女性と話しているのを見て驚き、不思議に思ったのも無理はない。

 さて、その二人の水に関する会話の後で、その女性は「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。そこでイエスは女に、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」(四・25〜26)と言われている。この言葉を原語のギリシャ語で見ると、「わたしが、それである」が(エゴー・エイミー)となっていて、それは「出エジプト記」で、モーセが神と出会った時に、神の語った『わたしは、有って有る者』(エゴー・エイミー)(三・14)から来ている。それ以来、この「エゴー・エイミー」は神しか使ってはならない言葉となっていた。その言葉を主は、人々から見下されていたサマリヤの罪深い、名もないような一女性に用いているのである! 人は彼女を見捨てても、主にとっては救われねばならない宝のような存在だからである。何という主の愛と憐れみ。その主の愛の深さは計り知れないものがある。

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