タッキーのやっぱり聖書でしょ
- Rev. Jun Takii
- 7月19日
- 読了時間: 3分
ヨハネ8章の最初に、姦淫の罪の中で捉えられた女性が出てきます。
これは完全にイエスを試そうとしてセットアップされたもの。聖書にそう書いてあります、「イエスを告発する理由を得ようと、試みて(6節)」と。その為にこの女性は律法学者やパリサイ派の人たちに利用され、罠にかけられたんです。しかもこれから石打の刑に遭って殺されるかもという。どんなに惨めで悔しかったことか、辛かったことか。
愛を解いてきたイエスが、この律法に反することをした女性に対してどのような反応をするのか、それが試されていた。もしこの女性の罪に対して何も対処しなければ、律法を軽んじるということになる。またその律法の通りにこの女性を石打にするのであれば、イエスに愛は無いと言うような、どうしようもないジレンマにイエスを陥れようとしていた。どちらに転んでもイエスに対する評価が悪くなるようなもの。
当時この結婚以外の性的関係(姦淫)とは、石打で死刑に値するものであった。その律法学者やパリサイ派たちの罠に対してのイエスの反応は?イエスは土に何かを書いていた。何を書いていたのだろうか?
神が指で文字を書いていたと言うことに関して、旧約聖書ではモーセの時代に石の板に神の指が文字を書いていたことがある。そこに十戒を書いていた。もしかしたらイエスは身をかがめて十戒を書いていたのかもしれない。もしくは、そこにいた人たちの罪をもっと詳しく。それを見て人々が自分の罪を示されて、一人また一人と帰っていたのかもしれない。
律法の目的はそもそも何か?律法の目的は我々に罪があることを示し、そして我々がイエスのところに行くためのもの。
その律法を完璧に行うことではない。それは無理だ不可能だ、ということを悟らせる為のモノ。だから自分じゃ無理だから、救い主が必要だと気づかせ私たちをキリストに導く為のモノ(ガラテヤ3:24)。
だからそれを見た人たちは一人また一人とそこを去っていった。誰も神の前に義なる者、聖なる者ではないのだから。
これはほんとに恵みであり、憐みの姿。神ご自身の義を妥協することなく、この女性を助けた。
私たちが救われたのもそうです。神は我々の罪を処罰しなければならない。でもだからといって我々をすべて石打にして罰するわけではない。神ご自身の義を保ちながら、また人を救うための方法として、その解決の方法として十字架があった。神ご自身が犠牲になるため、ひとり子イエスを十字架につけて、それを信じることによって我々が救われた。本当にこれが恵み。これが憐み。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」2コリント5:21

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