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タッキーのやっぱり聖書でしょ

サマリヤにて井戸にいた女性に対するイエスの態度、姿勢から、ボクらがどのようにして、この日本という文化、アメリカという文化の中において、クリスチャンとして行動していくべきかの参考にしたいと思います。

ヨハネ4章は、サマリアの井戸の横にいた女性の所に行った話。ヨハネはその前の章では、イスラエルの宗教的政治的社会的地位のトップの重鎮ニコデモがイエスと話してるところを描いた。そしてこの4章では、イスラエルの国の中で蔑まれていたサマリア人のその中でも、当時さらに最も下の下にいた女性、皆からのけ者にされていた女性のことを書いている。ヨハネがこの書を書いた目的は社会的地位の高い人から、社会で最も見下されているような人まで全て救いたいんだろうなぁと言う気持ちが見て取れる。

当時の慣習からしたら、ここでわざわざイエスがこの女性に会いに通らなくても良いような道を通って、わざわざサマリア地域のこの井戸のところまで来た。そしてこの罪の中にいた女性に対して声をかける。

4節 「サマリヤを通って行かなければならなかった」・・・サマリヤを通って行かなければ地理的に行けない、他に行き方がない、という意味ではないんです。当時、エルサレムからガリラヤに行くには、ユダヤ人たちはサマリヤは避けて通れたし、そうすることが普通だった。なぜわざわざサマリヤに?イエスはこの女性に会うために、サマリヤを行かねばならなかった。

この話は、福音書の中でヨハネしか書かれてない。でも今の時代、本当にたくさんの人が知っている話ではないだろうか?

ヨハネはイエスといた3年半の間に、イエスがいろんな人たちに福音を伝えて、いろんな人たちが信じるのを見てきたはず。イエスが行ったことを書こうとしたら、この世の全ての書でさえも足りない、と言ったくらい(ヨハネ21:25)。ではなぜ、このサマリヤの女性の救いについて、あえて書いたのか?まさにイエスの、「一人として滅びることを望まない」という姿を現したかったのではないだろうか。

イエスは人を救う為なら本当にリスクを取って、当時の人たちから批判されるようなことをたくさんしてきた。当時の文化的、宗教的タブーを無視し、くだらないしきたりと戦っていたことが分かる。


イエスがサマリヤの女性と話しているのを見て、弟子たちは唖然として言葉を失っている(27節)。当時男性は、公の場で女性とは話かけないものだった。しかもこの女性はユダヤ人から蔑まれていたサマリヤ人で、今でも罪の中にいた生活をしていた。今一緒に住んでいた男性は夫ではない。しかし、その女性に、そのままで今のままでイエスは声をかけられた。

「あなたの行動を全て正して、直して、それから私のところに来なさい」と言われたのではない。

今のままで、ありのままでイエスのもとに来る。今のその行いを直してからイエスのもとに来るのではない。そこを間違わないようにしましょう。そこを間違えてしまい、本来たくさん神様のところにそのままで来るべき人が来れなかったという例が、過去にどれほどあっただろうか・・・。「教会に来るなら、クリスチャンになるなら、これしちゃいけない、あれしちゃいけない」という態度をこれまでボクも恥ずかしながら取って来たことがあったと思う・・・。

昔、親父とか近所のおじさんとかが、教会に行きたくない理由は、教会ではタバコを吸うと怒られるからだと言っていた。昔の日本人男性たちは、タバコを吸うことを唯一の楽しみとしていた。今でも、クリスチャンは酒を飲む人、タバコを吸う人たちに対して、ある程度の偏見や拒否反応があるのでは?そんなものは人の救いに比べたら、本当にどうでもいい事、ささいな取るに足らないことなのに…。

イエスが今この時代来られて、たくさんの人たちに声をかけようとされたら、どこに行っただろうか?教会の中で待っているだけということはしなかっただろう。居酒屋に行って飲みながらバイブルスタディをやったかも知れないし、喫煙ルームに行って皆と歓談されたかも。それをいぶかしげに思う”聖なる”クリスチャンたちの目など全く気にせずに。

ボクたちの周りにあるくだらない習慣や偏見や思い込みなど、それらによって人々をイエスのもとに来ることを妨げているモノはないだろうか?

この女性は、イエスにありのままで話しかけられ、生ける水についてイエスから聞いた。そしてそれを受け入れることによって彼女は変わった。

これまでは人の目を避けて生きてきたのに、今は堂々と町に戻って人々にイエスのことを話し始めた。

人はありのままで神と出会うことによって、本当に変わるものですね。このイエスの姿を見本としましょう。

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