結婚式が終わると、すぐにも運送会社に戻り、タイヤを積んでアメリカ人夫妻のもとに行った。すでに日は暮れて気温も下がり、彼らは車の中で毛布にくるまって待っていた。日々野青年がタイヤをつけ終わると、彼らはとても喜び、修理代の他に、車に載せていたものをいくつか贈り物として彼にくれた。
その頃、日々野青年には一つの願いがあった。彼は名古屋YMCAで英語の勉強をしていたので、アメリカ人の誰かと文通をして、もっと英語力をつけたいと考えていた。そこで彼らに誰か文通相手を紹介してもらえないか尋ねたところ、フランキーという名のご夫人が、「そうねえ、私の母が喜んでするでしょう」と言って、母親の名前とテネシー州チャタヌガの住所を紙に書いて渡してくれた。それから三週間後、日々野青年はアメリカ人夫妻が住んでいた、名古屋城に近いアメリカ軍士官居住区内の彼らの家のディナーにも招かれた。
やがて、夫人のお母さんエドナとの文通が始まり、日々野先生は英文での文通に夢中になっていった。和英辞書を片手に、何日もかけて格闘しながら初めて英語の手紙を書いた。しばらくすると、文通相手からイエス・キリストとその福音について書いて来るようになったばかりか、キリスト教のパンフレットや本も送ってくるようになった。日々野青年はキリスト教自体には興味がなかったが、心を閉ざしていた訳ではなかった。関心はもっぱら英語にあった。
アメリカが日本を占領した当時、駐留軍の彼らは弱い立場にある日本人を虐待しなかったばかりか、親切だった。彼らは、日本の学校での体罰をなくすなど、日本社会に良いことをもたらしてくれた。戦時中の日本の学校では、ささいな規律違反でさえ体罰を受けるのが当たり前になっていたのである。そういうこともあり、日々野青年はキリスト教に少しづつ心を開くようになっていた。ところが、次第にエドナ夫人に書く話題に事欠くようになり、教会に行ったら何か書くことがあるかも知れないと思い、以前、翻訳の仕事で知り合った市村恵美子(後の日々野夫人)がクリスチャンであったことを思い出し、彼女に連絡することにした。すると、彼女は自分の教会に来るよう誘ってくれた。それは名古屋市内の金城教会だった。やがて、彼はその群れに溶け込んでいった。
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