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ペテロへの主の最後の言葉 ①

更新日:6月16日

 主イエスが捕えられ、裁かれて十字架につけられ、殺されたことによって、弟子たちも捕えられる可能性があった。さらに、十字架から三日目の朝、イエスの墓が空っぽであったというのは、弟子たちが遺体を盗んだからである、という事実無根の噂をユダヤの官憲が流したので、弟子たちの身に危険が及ぶことも十分考えられた。そこで弟子たちはユダヤ人を恐れて家にこもっていた。そのような状況にあった弟子たちのところに主が現れ、「シャローム」(平安あれ)と言われたのである。そして、恐れ惑う弟子たちに、ご自分が死から甦られたことを証明するために、釘と槍の跡が残る手と脇腹の傷をお見せになった。それが復活の最も確かな証拠だったからだ。それを見た弟子たちは喜んだ。

 そこで、主は、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなた方を遣わす」と言って、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と命じられている。主は先に、最後の晩餐の席で「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ一四・16〜17)と約束されているが、それは弟子たちのみならず、現代の私たちにも与えられているものである。

 聖霊がどのように私たちに働いておられるのかというと、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』(1コリンと一二・3)と言うことができない」とあるように、あなたが感じようと感じまいと、主を信じるすべてに、この聖霊が与えられている。主イエスの時代には、主の居られる場所でしか救いのみ業が起こらなかったが、聖霊が送られている時代となった今は、いつでもどこでも、誰でも信じる者に聖霊のみ業が起こるのである。論より証拠、あなたが福音を語る時、それを受け入れる人に救いのみ業が起こっているではないか。

 創世記に、神が土のチリで造られたアダムに「命の息」を吹きかけた、と記されている。命の息とは聖霊のことであり、それによって「人は生きた者となった」(ネフェシュ)「二・7」とある。つまり、人は神との関係によって初めて生きる者となるのであり、罪で死んでいた私たちが主を信じて聖霊を受ける時に、私たちは本来のあるべき姿となって神と共に生きるようになるのである。

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