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ペテロへの主の最後の言葉 ②

 さかのぼれば、罪はアダムとエバがたちが神の命令に背いて、園で唯一禁じられていた知識の木の実を食べたことに始まる。彼らは神の怒りを買い、そのためにエデンの園から出され、死という大きな壁が立ち塞がることになった。しかし、神は愛と憐れみによって、再び人をご自身のもとに引き寄せようとされ、そのために救い主イエス・キリストが遣わされ、信じた人であれば誰でも、今度は天のエデンという永遠のみ国への道を開き、死の恐怖から私たちを解放してくださった。その働きを助けるために聖霊が与えられているのである。

 とすれば、聖霊は神が人類に与えてくださった最高のギフトだと言える。創世記に記された神の最初の働きは、人に「命の息」を鼻から吹きいれることで、人が生きる者とされたように、十字架の死から復活された後の主イエスの最初の行動は、弟子たちにご自身の息を吹きかけたことであった。それは、使徒行伝冒頭に予告された神ご自身である聖霊の降臨の前触れであり、聖霊が与えられることで、私たちが福音を語る時に、神の救いのみ業が現れるためであった。

 弟子の一人、ペテロは主が十字架につく前夜の最後の晩餐で、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません〜たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(マタイ二六・33&35)と豪語した。その後、主が捕えられ裁判のために大祭司の官邸に連れて行かれると、その官邸の庭で、「あなたもあのイエスの弟子ではないか」と、居合わせた女中に言われているが、ペテロはその時、自分が捕まるのではないかと恐れ、そのために主を否んだ。しかも三度までも。

 そのペテロに対し、復活の主は彼の三度の否定を打ち消すかのように、「あなたはわたしを愛するか?」(ヨハネ二一・15)と三度もお尋ねになっている。ギリシャ語には、アガペー、フィレオー、エロスの三つの愛がある。それぞれ神の愛、兄弟愛、肉の愛の意味があり、そのうちの最初の二つが彼らの会話に使われていて、最初はアガペーであった。それに対しペテロは、フィレオーならできますが、あなたのようにご自分の命を捨ててまで他者を愛するような愛は私にありません、という返答であり、二回目も同じ言葉の繰り返しであった。

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