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一点を見つめて

 ガーナ出身で、国連事務総長まで務めたコフィー・アナン氏がいる。彼が17歳の時、校長が教室に入ってきて、大きな紙を生徒たちの前にかざした。その紙の中央には小さな黒点が書かれていた。校長は質問した。「何が見えるかい」。全員が「小さな点」と答えた。それを聞いていた校長が言った。「全員が小さな黒点を見ているが、白い紙と答えた人は一人もいないのか。そのような目で、これからの人生を生きてはいけないよ」と。私たちの多くは、相手の持つ欠点に目を奪われ、その人に対して否定的になりやすい、という例話である。

 では、イエス様はどのように私たちをご覧になっておられるのかというと、アナン氏が掲げた白い紙の黒点とは逆の、黒い罪に満ちた私たちの心の一点、つまり、罪に汚れた者でありながら、神に愛されている存在という白い一点である。そのゆえに、私たちの側には何一つ良きものが無いにも関わらず、神はその一人子イエスを遣わし、愛する御子の命を十字架にかけてまでも私たちへの愛を貫き通された。それは神から溢れ出る一方的な愛と憐れみのゆえである。

 イスラエルにサムエルという祭司がいた。ある日、彼は主なる神から、「あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見出した」(1サムエル一六・1)と命じられた。すでにサウルがイスラエルの王として君臨していたのだが、主は、ご自身に従順でない彼を見捨てていた。そこでサムエルは出かけ、エッサイの子供たちに会ったが、長子の立派な外見を見て、この子が王になるに違いないと思った。だが、主は言われた。「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(同7節)と。こうして八番目のダビデが選ばれたのだった。この心というのは、何もダビデに罪がないといっているのではなく、彼の神に愛されている存在そのものを指し、神はご自身の心に従って彼を選ばれたのであった。

 ジョン・ドレッシーという学者は、「もっとも幸せな夫、あるいは妻とは、もっとも素晴らしい女性、あるいは男性と結婚した人ではなく、結婚した相手の最も良いところを見ることのできる人である」と言う。私たちも互いに相手を見る時、絶えず、その人物の良いところに目を留める者になりたいものである。

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