九月二日(土)、中野雄一郎牧師夫人、明子先生の葬儀が執り行われるというので、前日の午後、ホノルルに向かい、ワイキキのホテルに投宿した。そこは僕がサンノゼ大学時代の一夏をバイトで過ごした街で、馴染み深かったこともあり、葬儀会場である「日本文化センター」まで歩いて行くことにした。
かれこれ三十分ほど歩いて文化センターが間近になった頃だった。歩道をさえぎるように目の前の狭い道路を出てきた車があった。高齢の女性ドライバーだった。そして窓を開けて僕に英語で尋ねてきた。「日本文化センターがどこか知っていますか?」日系と見受けたその女性に日本語で、「今、僕もそこに行くところです」と応えると、「じゃあ、一緒に行きましょう」と相なった。車をドライブするのだから、当然その場所も知っているはずだったのだろうが、見つからずにその辺りをグルグル回っていたのではないかと思われた。車は彼女の家族の車だそうで、家族からは、その建物は近いからと言われて、正確な場所も聞かずに出てきたのであろう。僕はこの周辺には馴染みがなかっただが、大体の見当をつけてきたので誘導していくと、まもなく文化センターの建物が見え、無事に着く事ができた。ご高齢ということもあってか、運転はまことにゆっくりで、助手席の僕は後続の車が心配でハラハラどうしだった。聞けば彼女はホノルル教会のメンバーで、地元の方と結婚された熊本出身の女性だった。
葬儀には明子夫人を慕う大勢の参列者が集まり、地元ハワイはもちろんのこと、アメリカ本土や日本から来られた方々もいて、広い会場が埋まっていた。葬儀の中で、雄一郎牧師が挨拶に立ち、夫人が脳卒中で動けなくなった時のことを証しした。病む妻を思い、「あなたの看護に自分の残りの生涯を捧げる」と言った時、夫人は「私のことよりもとにかく伝道に行ってください」と回らない舌で応えたという。牧師の背後にある妻の存在と励ましがどれほど大きいかを知らされ、参列者の涙を誘った。この一例が示すように、家族に夫に教会に、身を粉にして仕えた七十八年の満ち足りた生涯であった。そこで「良い、忠実な僕よ、よくやった」(マタイ二五・21)とのお言葉を示され、僕もこのお言葉に生きなければとの再献身の思いをもって、その午後、機上の人となった。
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