マタイ二〇章にブドウ園のたとえがあり、そこにはどんなに神の憐れみが深くて大きいかが記されている。「五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った。『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』」(6)と言うブドウ園の主人の言葉である。今回はそれを紐解いてみよう。
頃はブドウの収穫時期。そこで労働者は仕事を得るために朝6時に市場に出かけて待っていた。しかし、雇われなかったので、9時、12時、3時まで待った。そして陽が傾く夕方の5時までも待ったのだった。しめて十一時間も待っていたことになる。その日は炎天下で、待つことさえも大変厳しい一日だった。
さて、この5時まで待っていた人は、なぜ諦めないで5時まで、日がな待ち続けていたのであろうか? 家で妻や子らが自分の帰りを首を長くして待っているのだと思うと、無駄足で帰ることもできずにいたからではあるまいか。
だが、その人が一日待つことができたのは、次の主人の言葉に、その糸口があるようだ。「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか」と言っているように、毎回、来る度ごとに、自分に注がれる主人の温かな眼差しを知っていたからであり、この人だったらきっと頼れる、と考えたからではなかろうか。
これは天国のたとえなので、ブドウ園の主人というのは神である。神は、すべての人に温かな目を注ぐと同時に、ご自身に信頼する者を決して見捨てることがない、というメッセージである。それゆえに主人は夕方の5時にも出かけたのであり、自分を待っている人が一人でもいるのなら、主は黙ってはおかれないお方だからである。神を待望する者への励ましがここに見えてくる。
やがて給料を支払う時がきた。1日働いた人も、5時から働いた人も同じ給料が支払われたが、「これは不公平だ」とつぶやく者がいた。当然の声である。だが、主人は次のように応えた。「5時まで待っていた人たちが、どんな気持ちでいたのか、分かるか。彼らも働きたかったのだが、叶わなかった。それでも彼らはわたしを信じて一日中待っててくれた。だから私は、5時からの人にも、皆んなと同じ様にして上げたいのだよ」。ご自分に信頼する者への豊かな憐れみがそこにある。それはご自分の命を与えたいほどに溢れる愛なのだから。
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