ある日、ゼベタイの母は彼女の二人の息子、ヨハネとヤコブを連れて主イエスのもとに来た。そして彼女の息子たちを御国において右大臣、左大臣にして欲しい、と嘆願したのだった。それに対して主は「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない」(マタイ二〇・22)とお答えになっている。
彼女は、主がやがて来るはずの御国の王となるお方と信じて、これまで忠実に主に従ってきた自分の息子たちのために、今この時に願い出なくてはと思ったのであろう。彼らの願いは神の国で一番偉い地位に就きたいというものであった。弟子たちは主が十字架につく直前まで、誰が一番偉いかを競い合っていたので(マルコ九・34)、隙あらば、われ先にと主に願い求めようと考えていたようだ。しかし、実はこれこそが人の罪である。他人を押し退けてでも、自分が一番になりたい、という思いである。当然そこには妬み、不和、争いが待っている。平和などあり得るはずがない。だから主は、この時、「あなた方は何を求めているのかわかっていない」と言われたのである。弟子たちは三年間、一体何を学んでいたのかと疑ってしまうのだが、そもそも私たちは自分というものが本来、分かっていないのである。罪によって神から離れていた私たちは、神の愛に触れて初めて自らの姿を知ることができるようになるからである。
主の十字架上の第一声は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・34)という祈りであった。何が分かっていないのかと言うと、全ての人の救い主として来られた神の御子を裁判にかけ、十字架にかけて殺すこと自体が、無知そのものだからである。
主の十字架は、旧約聖書からの定めであると同時に、私たちへの愛の証しでもあった。十字架という、これ以上の苦しみと辱しめはない刑罰を受けてまでも、ご自身を信じて救われる者が一人でも起こされるならば、死をも厭わない、というのが救い主の愛だからである。私たちの罪は神のひとり子イエスを死に渡すほどに重い。その罪を自ら進んで背負われたのが、救い主イエスだったのだ! 死に至るまで主が私たちに仕えられたように、私たちもその主に支えたいものである。それが本来、私たちの歩むべき道だと思うのだが如何であろう。
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