先日、あるユーチューブを見ていた時、心に響くこんな内容の話があった。
ある学校の数学の先生が黒板に十の問題と、その答えを書いていた。それを見ていた生徒がくすくす笑い出した。先生の最後の回答が間違っていたからだ。そこで先生が言った。「確かに先生の答えは間違っていた。だが、その残りの答えを褒めることなく、皆は最後の答えを見て笑った。いいかい。多くの正しい答えを出していても、一つの間違いを見て人を笑うようではいけないよ」と。
私たちは一つの間違いを笑い、裁く。では自分はどうかというと、一つどころではない。多くの間違いを犯している。ローマ書二章の冒頭には「だから、ああ、すべて人をさばく者よ〜。さばくあなたも、同じことを行っている」とある。
僕が津軽の田舎の中学生の頃だった。ある時、僕は水受け用の桶からひしゃくで水を汲んで、そのまま飲んだことがあった。それを見て姉が僕をとがめた。ところが、その夜のこと、今度は僕が、姉が僕と同じようにひしゃくから直接、水を汲んで飲んでいる現場を目撃した。そこで僕は言った。「ねっちゃもおらど、同じことをしている!」。私たちが人を裁く背後には、自分が規準であり、それで人を裁くのだが、もとよりそれは本来、人の守れるものではないのである。
旧約聖書にある律法は、この自分の規準が如何にもろく、そして守れないものであるかを示している。例えば、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽りを言うな、というモーセの十戒がある。もちろん、人を殺すことはしないとしても、人を殺すような言葉を放ってはいないだろうか。姦淫してはいけない、とは知っていても、心で淫らな思いを持ってはいないだろうか。そうしてみると、この十戒の一つも守れないのが私たち人間であることを知らされる。哀しいかな。守れないお互いが、お互いを裁いているのが、この世界の現実ではなかろうか。
そのような私たちに、人のことを云々するよりも、むしろ聖書は「隣人を愛せよ」(マタイ二二・39)と説く。人を裁くと、その人も何かのことで裁いた相手を裁き返す、という連鎖が起こり、それは止めどなく続く。それを止めるのが隣人愛なのである。どうりで主イエスが、聖書の中で最も大切な戒めだと言われた訳がそこにある。人がお互いに平和で生きるための知恵がそこにある。
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