先日、僕がオリンピックを観ようとしてTVのスイッチを入れた時だった。パリの沿道で大勢の観衆が見守る中、一人黙々と歩いている女子マラソンの選手がいた。彼女は特に怪我をしているようには見えないが、後方には報道関係の車が付き添い、沿道では彼女を励ましたり、一緒に歩いたり走っている一般市民の数は半端ではない。フィニッシュ地点に近づいた彼女がゆっくり走り出すと、観客は大歓声で拍手喝采し、スタンディングオベーションで迎えた。人々の声援は、金メダル選手のそれにも引けを取らないほど大きく、温かかった。
この選手はブータンのキンツァン・ラモ選手(26)で、トップから約1時間半遅れの3時間52分59秒でフィニッシュした。終盤は歩くこともあったが、とにかく42.195キロを走り抜いた。彼女が長距離ランナーになったのは、4年前に軍に入隊し、周囲に勧められたのがきっかけだと言う。そして、初めて迎えた国際大会が今回のパリ五輪だった。「完走すること」がいちばんの目標だった。今回の女子マラソンには91人のランナーが参加し、11人が棄権した。
使徒パウロは彼の最期の手紙の中で、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(2テモテ四・7&8)と叫ぶ。彼は、信仰というマラソンを完走したのだが、地中海諸国を伝道する中、数え切れないほどの障害や迫害があった。ある時には同胞のユダヤ人たちからも石で打たれ、鞭打たれ、命すら危ぶまれたこともあったが、その彼を支え続けたのは主イエスである。
というのも、信仰のマラソンとは主の恵みのただ中を走るからだ。人間の力や努力で走り切れるものではない。たとえ身体に障害があろうと、寝たきりであろうと、主がその手をとって伴奏者となってくださるからこそ、走り抜くことができるのである。否、たとえ力尽きても、主がその人を背負って天国というゴールに導いてくださるのであり、そこに信仰をもって歩む者の祝福がある。
走るコースは皆違う。スピードも皆違う。若い者もいれば、熟年者もおり、健康体の人もいれば、障害をもった人もいる。が、信仰のマラソンは、その人だけしか走れないコースであり、その意味で、皆が金メダリストなのである。
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