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姉、和子の訪問 ③

 「それと同じように、イエス様が、姉っちゃに滅びることのない命という真珠を与えるために来て下さったんだよ。だけど、人には誰でも心の中に神に喜ばれない罪というものがある。真の神を神としない自己中心という罪だ。その結果は死だと神は言う。実は、その死を一手に引き受けて下さったのがイエス様の十字架の死だ。姉っちゃの代わりに裁かれ、代わって死んで下さることによって、イエス様は姉っちゃへの愛を示されたんだ。その身代わりの死が、神様からの贈り物という真珠で、永遠の命なんだよ。だから、姉っちゃ、この真珠を受け取らねが」。おそるおそる訪ねてみると、姉は「はい、受け取ります。私はこの前の大腸ガンの手術の時、節ちゃん(前妻)の持っていた聖書に手を置いて祈ってたのよ。私を助けて下さいと」。そう言って姉は涙したのだった。

 そして、僕は祈った。「イエス様、あなたの愛する姉が病んでいます。どうか姉を癒し、助け、元気にしてくださり、願わくは再び家に帰ることができるまでに助けてください。イエス様によってお祈りします」と。僕はその後で、姉がどんな返事をするかが不安であった。もしかして、何の応答もないかも知れないと思ったからである。だが、その直後、姉は大きな声で「アーメン!」と、力強く、しかもハッキリと言うではないか。僕はそれを聞いて、これまでの祈りが報われたと思った。家族の救いのために、姉の救いのために僕は五十年以上ひたすら祈り続けてきた。この姉の応答が、愛する者の救いの希望を決して失ってはいけないという確信を僕に与えてくれたことは言うまでもない。

 実家に居た一週間は、近い将来、必要になる葬儀にも備える必要があった。僕の家は町内の真言宗・大円寺の檀家である。だが、三十年ほど前に、僕はキリスト教式で葬儀を執り行った。父はクリスチャンではなかったが、召される直前に僕の話を聞いて、「イエス、イエス!」と言って召されたこともあり、是非ともキリスト教式でしたいと家族に願い出たのであった。兄と二人の姉は、「キリスト教式でも良いが、その後は檀家として様々な法要もあり、父の魂が迷うのではないか」と考えたようであった。しかし、すでにクリスチャンになっていた母が、「私が責任を持つから、宰に任せよう」と言ってくれたのである。

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