人は相手が自分の思い通りにならないと、力に任せて相手を無理やり変えようとすることで争いが起こるが、世界各地の紛争の要因がまさにそこにある。
本来ならば、カインは神にどう改めたらよいのかを問うべきだったし、アベルにならって、心を込めて捧げれば良かったはずであったが、彼は神を見上げようとはせず、己れの気のむくままに、愛する家族まで殺してしまうのだった。死んだアベルは、復讐こそ出来ないが、聖書には「土の中から叫んでいる」(四・10)とある。「神よ、何とかして!」という、復讐を求める叫びであった。
二・「主こそ平和」
それから何千年も後に、主イエスが来て言われた。「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな」(マタイ五・38&39)と。この「目には目を」という教えは過度な復讐にならないための旧約の知恵であったが、主はさらに踏みこんで言われた。「敵を愛せ」と。主にとって、敵は存在しない。全ての人が神の愛する存在であり、皆が救われて欲しいからである。
イスラエルとガザ、ウクライナとロシアの戦争も、理不尽極まりない。そこは互いに復讐という泥沼から抜け出せないでいる。だが、聖書は、どんなに仕返しをしたくても復讐するなと命じる。もしも愛する者に悲劇が起きたら、誰しもがまともではいられないであろう。しかし、神は、仕返しをするな、復讐をするなと繰り返し、繰り返し命じられるのである。そのような神の言葉は愚かだと、あなたは思うかも知れない。では、言わせてもらおう。誰がこの負の連鎖を止めることが出来るというのか? 一旦始まったら誰も止められないではないか。だから神の介入が必要なのだ。神の助けなくして解決はないからだ。
十字架上の主の最初の言葉が、「父よ、彼らをおゆるしください」(ルカ二三・34)であった。これは自分を殺す者に対しての言葉であり、主の本心であった。その赦しを通して、やがて敵が自分の罪に気づき、救いを受け入れることによって初めて平和が訪れるからだった。そのためには愛と赦ししかない。復讐は主に任せ、私たちは互いに赦し合おうではないか。それが神の絶対命令である。
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