従来、敵は憎むべきものと教えられてきた。だが、それに対して主イエスは「汝の敵を愛せ」(マタイ五・44)と言われている。前代未聞のことである。
実際、主は妬みのゆえにご自分を殺そうとする者たちのために、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです」(ルカ二三・34)と祈っている。主が何故そのように祈られたのかというと、彼らは分別なくそうしているからだというのだ。だから裁けないのだと。主にとって、人は敵ではなく、全ての人々が愛の対象だからである。
しかし、私たちの周りには敵だと思いたくなる国や相手が一人や二人はいる。最も親しい家族同士でも、否、夫婦ですら自分の気に食わないことがあると、そこから違和感が生まれ、敵対関係に発展していくことも世の常である。
ここで敵や親しい者すらも愛せない私たち自身に目を向けてみよう。主を十字架につけるために、ユダヤの指導者たちはイエスを裁判にかけた。ところが、総督ピラトは、「私はこの人になんの罪も認めない」(ルカ二二・4)と言ったにも拘らず、そこに集まっていた群衆は指導者たちの煽動によって「十字架につけよ!」と大声で連呼し始めたのだったが、誰ひとり「イエスを助けよ」と叫んだ人はいなかった。そう叫んだら捕えられるからであり、自分の命が惜しいので、「十字架につけよ」(マタイ二七・22)と叫ばざるを得なかったのである。あなたも私も、その場にいたら同じように叫んだであろう。そこで「牧師さん、人を殺すなんて、そんな冗談はよして下さいよ!」とあなたは言うかもしれないが、聖書は言う、「義人なし、一人だになし」(ローマ三・10)と。
このように、私たちの中には敵はもちろんのこと、ともすると、親しい者すらも愛せない自分の弱さに気づくばかりか、さらには、自分自身が救いようのないほどの罪深い者であることを知らされるのである。とすると、主が十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです」と祈られた祈りこそ、実はあなたや私のための祈りではなかっただろうか。
それだから、私たちは、日々、神のお言葉である聖書と向き合い、自分の歩むべき道を糺(ただ)してもらう必要があるのではあるまいか。
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