ヨハネは、イザヤについて「 イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである」(ヨハネ一二・41)と証言しているが、イザヤが「メシヤの預言者」と言われる理由がそこにある。それはまた預言者としての最高の祝福であり、イザヤが旧約聖書最大の預言者と言われるゆえんでもある。
では、イエスの十字架の苦しみは、誰のためであったかというと、誰のためでもない、あなたや私のためであった。それほどまでに神は、私たちが救われ、永遠の命を得て、ご自分の懐に戻ってくることを願われたのである。『愛の章』と言われる第一コリント一三章に、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(7節)とある。これは神が私たちに注がれた愛がどのようなものであるかを示す内容であり、神は私たちの過去・現在・未来のすべての罪を忍びつつ、私たちを信じ、望み、耐えるというのだ。神は、やがて私たちが神の愛に目覚めることを信じて待つという。換言すると、神は私たちが出会う人々の命をあなたに託されたと言える。否、神はあなたに神ご自分のいのちを託したとさえもいえる。それほどに神はあなたに期待しているのである。
神はご自身の十字架の愛をイザヤに見せてくださった訳だが、それを知って彼の心は祭壇の火のように燃え上がったことであろう。彼は生涯、神の言葉を語り続けることによって人々の反感を買い、ついにはユダの王マナセの手にかかって殉教したと伝えられるが、彼は神の愛からぶれることはなかった。
イザヤへの神の語りかけは、滅びることのない永遠の神の言葉なので、時空を超えて、今も生き生きと私たちの心に迫って来るのである。そのように、神のひとり子イエスを私たちに与えてくださった神の愛と、その愛を具体的に示すために十字架にかかり死んでくださったイエスの愛を知る時に、どうして心が燃えずにおれようか。だから燃えよ、私の誇り、喜びであるホーリネスよ!
だが、この福音を手渡してゆくのは、簡単ではない。3年前に99才で召された母は、幸いにもクリスチャンになっていたが、かつて、すでに牧師になった僕に、「宰(編者注)や、おめ、お布施で、生きるもんでねよ」と言ったことがある。母は僕のことで肩身の狭い思いをしてきたのだなと思い、返す言葉もなかった。
(編者注) 杉村牧師のお名前「つかさ」。普段はひらがな表記で通しておられますが、ご本名は漢字で「宰」です。
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