だが、お布施でも何でもいい、福音を伝えることで人が救われるなら、これにまさる喜びはない。パウロは言った、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」(ローマ一・16)。救いのためならばいくらでも恥をかこうではないか!
というのは、伝道は義務や責任という以上に、何にも替え難い喜びだからだ。最後の晩餐の席で、主は、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである〜これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」(ヨハネ一五・11)と語る。主は十字架を前に、繰り返し(ヨハネ十三~十五章)救いの喜びについて語っている。この世に、それに優る喜びはないからである。
さて、神の愛に生き、熱き思いをもち続けるためには二つのことが必要である。一つは、日々聖書を読むことである。出エジプトで、イスラエルの民が朝ごとマナをいただき、夕ごとに肉をいただいたように、霊の糧である神のお言葉を受け取らなくては神の愛に触れることはできない。もう一つは祈りである。僕は、家族、教会、同僚や引退牧師のために一人ひとり名を挙げて祈るが、現役の時は、早天祈祷会では祈ったが、一人で祈るということでは失格者であった。恥ずかしながら、引退してやっと一人で祈る事が出来るようになった。
実は、聖書と祈りは「対面通行」である。聖書を通して神の愛をいただき、それに応じて、神への感謝と賛美、あるいは悔い改めの祈りができるからだ。
主はその愛のゆえに、私たちの内側に住み、前に歩み、後ろにあって私たちを守るお方である。そのようにしてまで、神があなたと日々、心と心の交わりをしたいと切に願っておられるのである。愛とは、そういうものではないだろうか。主はご自分の愛を知って欲しいと同時に、あなたの声を聞きたくて、耳をそばだて待っておられる。聖書と祈りが対面通行という理由がそこにある。
私たちの神は、あなたをきよめ、福音のためにあなたを遣わされる。そのために、我々も日々神の御声である聖書を読み、いよいよ祈りの祭壇に炎が燃え上がるよう、「霊に燃え、主に仕えよう」ではないか。燃えよ、ホーリネス!
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