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相手の立場に立て

 一八六三年七月初旬、南北戦争の最大の戦いとなったゲティスバーグでの戦い直後に、リンカーン大統領は北軍のミード将軍にこのような手紙を書いた。「南軍のリー将軍はわが手中にあった。追撃すれば戦争は終結したに違いないが、どうして去る月曜日に追撃しなかったのか。彼が対岸に渡ってしまった以上、もう、それは不可能だ。今後、あなたに期待することは無理のようだ。事実、私は期待していない。あなたは千載一遇の好機を逸したのだから。そのために私も計り知れない苦しみを味わっている」。だが、リンカーンはこの手紙を出さなかった。静かなホワイト・ハウスで攻撃命令を下すのはいとも容易いが、戦場の苦しみを見知っているミード将軍にとって、進んで追撃する気持ちにはなれなかったのだろう。そして、この手紙を出せば自分の気は済むだろうが、一方のミード将軍は自らを正当化して、かえって私を非難するに違いない。リンカーンは、手厳しい非難は何の役にも立たないことをよく知っていた。

 ローマ書でパウロは、「ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである」(二・1)と言う。私たちは自分の意にそぐわないと、いとも簡単に相手を批判する。いつも自分を基準にして、自分中心の考えに立っているからであるが、パウロは、もし相手の立場に立ったとしたら、私たちもその人と同じ行動をとるであろうことを見抜いていたのである。もともと自分中心の私たちが、その殻を破ることは難しい。

 私たちは、相手を裁くことによってどれほど多くの人間関係をぶち壊してきたことであろう。しかし、相手の立場に立とする時に、簡単には批判できなくなる。相手の行動にはそれなりの理由があるからである。英語で、相手の立場に立つことを「その人の靴を履く」と表現する。相手の靴を履く時に、私たちは初めて相手の気持ちや立場を理解することができるからである。主イエスのご命令、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・39)とは、まさにこの事を言ったものである。この世を裁かれるのは神であるが、神でさえ人を裁くには、その人の生涯の終わりまでお待ちになるではないか。

 

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