旧約聖書の「伝道の書」に、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(三・11)とある。ところが、私たちの人生において、「神の為さることは美しい」などとは言えないことが多い。病、痛み、戦争、飢饉などという理不尽なできごとの中でどうしてそう言えよう。だが、これは人智をはるかに超えた神のお言葉であり、それを限られた私たちの知恵や経験で云々することはできない。新約聖書には「思い出す」という言葉が30回近くも出てくるが、主イエスが「今あなたには分からないが、あとで分かるようになるであろう」(ヨハネ一三・7)と語られたように、その時点では分からない事があるからだ。
「足跡」という詩がある。ある人がイエス様と二人で人生という砂浜を歩いていた。彼はどんな時にも主が一緒にいて下さると信じていた。ある日、彼が人生で最も苦しかった日々を思い出していた時、砂浜には一人の足跡だけしか残っていなかった。そこで彼は主に訴えた。「主よ、ご覧下さい。私の足跡しか残っていません。あの時、あなたは一体どこにおられたのですか」。すると主が言われた。「愛する子よ。あれはあなたの足跡ではなく、わたしがあなたを背負って歩いていたのだよ」と。だからその時はつらくっても、どんな時も主が最善を為してくださると信じて、主を賛美することが私たちの務めなのである。
では、果たして今この世界で起きているウクライナでのロシアによる侵略戦争、これを「美しい」と言えるのだろうか?「汝の敵を愛せ」と命じられるお方が戦争を始めるはずがない! 戦争は全く人の罪のなせる業であり、神が責めを負うものではないのである。だから主の憐れみと真実を信じて、私たち信仰者が国境を超えて心を合わせ、悔い改めて祈る時なのではなかろうか。
自然災害においてはどうであろう。なぜこんな惨事が起こるのかと神に文句を言いたくなるのが私たちの心情である。とは言え、なぜ災害が起こるのかは誰にも分からない。だが、そのような時でも「神の美しいみ業」のために、私たちクリスチャンが祈りを通し、捧げ物を通し、またボランティアを通して、神の美しいみ業のほんの僅かでも実現して行くチャンスなのではあるまいか。その時に、思いもよらなかった美しい神のみ業が見えてくるというものである。
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