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Rev. Tsukasa Sugimura

老いの神学

 今回も、鈴木和男牧師の『津軽の野づらから』(日本基督教団出版局、二〇〇一)からの引用である。老いの描写が実に見事である。一読にあたいする。

 ヨブ記の最後の結びの一句、『口語訳聖書』では、「ヨブは年老い、日満ちて死んだ」とありました。数々の苦難ののち、ふたたび、溢れるほどの祝福を与えられたヨブの終わりを描くこの一句は、しかし、謎のような言葉でもあります。「日満ちて」とは何を意味するのだろうか。通常の注釈者は、「日満ちて」とは、ヨブが人生を満喫して死んだと説明するのが、常のようです。『聖書・新共同訳』は、「ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ」と訳しています。「老いて」という訳もなお不充分な印象がのこります。これは、どうやら、文字どおり「老化現象」のことを指すらしく、ヨブは長寿を与えられると共に、それに伴う人間老化の現象もすべて味わって死んでいったということになるようです。

 ヨブが長い苦難と試練の後に与えられるその終わりは「長寿」という恵まれた長い命にあるだけでなく、長ければ長いだけ、それに伴って必然的に生じてくる人間老化の現象も全て充分に飽きるまで味わいつくして死んでゆくことも含まれていたというのです。老化現象も含めて、あえて、その全体を祝福として捉えてゆく視点のあることに深い慰めを感じ、そこにヨブ記の作者の並々ならぬ信仰をも感じます。健康で何の支障もない「老い」だけが祝福された老いではありますまい。老いてさまざまの老化の重荷にあえがざるを得ない老いも、やはり神の祝福の中にあるはずです。老いもまた信仰と服従との姿なのです。 

 フランソワ・モーリアックが『残された言葉』としてまとめられた彼の遺言のような本の中で書いているこんな言葉が私の胸をつよく打ちました。

「老境…私は今、その地点に立っています。しかし、ともかくも忠実なキリスト者としてとどまりつづけた人にとっては、老いはむしろ恩寵の時期なのです。それは、この時期に、なにもかも私たちから離れてゆくからです。私たちが、唯、神とだけでととどまるのです。老いにあっては、もはや、神と私たちしか存在しないのです。老いに老いて、私は唯一の現実と真に向かいあっているのです」。ここに、私は、ひとつの見事な「老いの神学」を見たように感じました。

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