エルサレムにシメオンという熟年の信仰深い人物がいた。現代同様、2千年前も、ローマ帝国の勢力維持のために各地で戦争があり、人心は荒廃していた。そのような中で彼は、ひたすら神に平和を祈り求めていた。彼の名前は、「神が聞いて下さる」という意味であり、祈りに応えて精霊が豊かに臨んでいて、救い主に会えるという神からの約束を得ていた。その約束通り、ある日、彼は両親に抱かれて神殿に入ってくる赤子のイエスを見た。そして、その子を抱くと、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、このしもべを安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救いを見たのですから」(ルカ二・29〜30)と言っている。この救いを見たというのは信じた、という意味である。
シメオンは赤子の救い主を抱き、その瞳を見て、もう言い残すことは何もない、私は今死んでも良いと心から満足した訳だが、いったい何が、彼にそう言わせたのであろうか。それは一言で言うと、救い主を信じたからに他ならない。人生で永遠の神に出会うことほど、大きなインパクトを与える出来事はないと思うからである。神が私たちに約束された救い主は、われらを愛し、過去の一切の罪を赦し、さらには永遠の命をお与え下さるお方である。そして、この御方を信じた時に、私たちは希望と喜びと感謝に満ちて心から満足するのである。
5世紀を代表する大思想家である、セイント・オーガスティンの回心は32歳であった。彼は母親泣かせの悪(わる)だった。そのために母モニカは彼の救いを信じて日々涙の祈りを捧げてきたのだった。この母の信仰を見て、アンブロシウス教父(今でいう牧師)は言った。「涙の子は決して滅びることはない」と。オーガスティンは回心した年のイースターにアンブロシウスから洗礼を受けた。彼がそのことを病床の母に告げると、母は踊り上がって主を賛美し、「もう私は死んでも良い」と言ったという。母はその年に召されてしまったが、人間にとって、救いの経験ほど心に満足をもたらすものはないという一例である。
シメオンは続ける。「この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照らす啓示の光」だと。この約束は異邦人である私たちにも与えられた。この約束を信じてあなたも心から満足する人生を生きて欲しいものである。
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