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忘れない

更新日:2023年7月28日

 詩篇七八篇には、「神がなされた事と、彼らに示されたくすしきみわざとを忘れた」(11節)とあり、モーセの時代、エジプトの地でイスラエルの民が奴隷であった地から、安住の地であり、約束の地であるカナンに至るまでの行程が記されている。民は絶えず神に助けられてきたにもかかわらず、そむいて来た。この詩篇には、何度も怒りという言葉が出てくるのはそのためである。

 出エジプトの際、神は民を救うために、紅海の海を真っ二つに分け、その中を通らせたのだが、それは神の大能を示すためであった。そのような体験したなら、以後どんな試練があっても、信仰を持って突き進めるはずであったが、実はそうではなかった。炎天下の砂漠を歩くのだから、すぐにも手持ちの水がなくなってしまい、喉の渇きを訴えた。そこで紅海を渡って三日目に民は神に文句を言った。このことから、人はどんなに素晴らしい神体験をしても、それはたった三日しか持たないことを知る。「三日坊主」ならぬ「三日信仰」だ。

 さて、もう一つの神にそむいた例を紹介しよう。エデンの園での出来事だ。

 アダムとエバは神と共に何不自由なく生きていたが、ただ一つ、園の中央にある木の実からは食べてはいけないという命令があった。だが、彼らは悪魔を装う蛇にそそのかされ、しかも、その実の美味しさと、見た目に負けてしまい、つい食べてしまったのである。人の欲は神の命令よりも強いからである。それが罪であり、以来、私たちもその罪を今に至るも引きずっている。その証拠に、今もなお私たちには、罪一つにさえ打ち勝てないという現実があるではないか。

 とかく私たちは、神が自分の上になされた素晴らしいみ業を忘れるのみか、逆に文句を言いやすい。それが罪であり、人はそれに支配され続けている。いったい灼熱の砂漠の中を通る時に、誰が「水をくれ!」と叫ばずにおれよう。目の前に大きな誘惑が立ちはだかる時、いったい誰がそれに打ち勝てよう。だからパウロは言った。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(2テモテ二・8)。つまり主イエスの十字架と復活のみ業を忘れるな、というのである。それが罪に勝つ唯一の方法だからである。それが信仰生活の秘訣である。

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