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犬飼道子 ③

 ですから皆さま、明日の第一の停車駅はロサンゼルスではありません。終点到着が数分おくれることもどうぞご了承ください」。いつか留学生は感動のあまりに泣いていた。「ああ、デモクラシイとは、こういうものであったのか、コモン・マンの伝統とはこう言うものであったのか。これなら日本が敗けても仕方なかった、敗けるのは当然だった」と思いつつ、いつまでも彼女は涙をふいた。

 翌朝、閑散とした小さなモンロビア駅には、駅長と、赤十字のしるしの上衣を着た人と、担架とが出て待っていた。ふり向けば、あのボーイ、あの車掌、そして窓という窓には押しあいへしあいのぞく顔、顔。「早くよくなるんだよ」「神のおめぐみを」「必ずよくなるから安心しなさい」「元気でね」「勇気を忘れずにね」。中の何十人かは手をさしのべて、もう動き出した列車からホームへ名刺などを投げた。「うちの番地だよ、困ることや不自由なことがあったらすぐしらせなさい」「私に電話して頂戴」「たずねて行くよ。さようなら」。さらには10ドル札を投げてくれた人もいた。留学生は、抱くようにして担架にのせてくれた駅長の大きな手を握りしめてまた泣いた。以来3ヶ年、どこの馬の骨とも知れぬ、かつての敵国の留学生は、サナトリウム中で一ばん、訪問見舞客の多い「幸せな病人」であった。たった1日の休日である日曜日をさいて、丸3ヶ年、毎週欠かさず、見舞ってくれる人もいた。それは尋常ではない。その、尋常には出来ぬことを、アメリカのコモン・マンの数人はやり通したのであった。

 「あの列車の一乗客より」の名で、クリスマスに、イースターに、どれだけ多くのプレゼントが贈られたことか! 籍をおいた東部のカレッジの「学生一同」からの毎月の小包のおかげで、留学生はいつも新しいパジャマを着け、歯ブラシや石鹸のたぐいを買う必要を全く持たなかった。無名で医療費が送られてきた。実はその一留学生とは私のことである。そう、私があの大病にもかかわらず生きていま在るのは、アメリカのコモン・マンのおかげなのである。

 「発病の外国人留学生は即刻帰国のこと」の法律を、それこそ身をもってはねつけて「薬も食物もまだ乏しい日本にこの病人を帰すことは出来ぬ」とがんばってくれた主治医以下おびただしい人々によって3ヶ年の療養をさせてもらった。

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