1948年9月のある夕べ、由緒あるこのユニオン・パシフィック特急の2等個室に、(何しろ4晩5日かけて行く大横断だから、1等も2等も個室寝室。特等はサロンつき2室。共同のシャワーから床屋設備まである列車)ひとりの日本人女子留学生が乗り込んでいた。持っているのは善意のアメリカ人友人の買ってくれたニューヨーク・ロサンゼルス間片道切符1枚。東京マッカーサー司令部の判の入る占領下のパスポート。明らかに大戦のずっと前に購入したものとわかる流行おくれの小さなスーツケース。着ているものも物資乏しい敗戦の国で苦労して整えたと一見わかる服。古い毛布を細工して縫った半コート。
乗りこむとすぐ、彼女は列車付黒人ボーイを呼んでベッドをつくってもらった。「まだ陽は高いよ、ミス(お嬢さん)」とボーイは言った。ボーイが出て行くのを待ちかねて彼女はベッドにもぐりこんだ。熱があった。咳は激しく、体は痛かった。挫折した留学の夢。砕かれた青春の夢。心の痛みは体の痛みを上まわり、これから行くカリフォルニアの結核病院のことすら彼女に忘れさせた。
列車がニューヨーク州西端の深く壮麗なハドソン渓谷にさしかかるころ、食堂車のベルが鳴った。が、彼女は食堂に行かなかった。あまりに苦しかったからでもあるが、財布の中味が悲しくなるほど乏しかった(当時、奨学金学生に給与される小遣いは月10ドルで、占領下の祖国からの送金は不可能であった)からでもある。翌日のひる、ノンストップだった列車はデトロイトに着いた。車体を洗い点検する2時間の停車時間に、他の乗客は自動車王フォードゆかりの町に行ってひるをすませた。しかし、ここでも彼女は食事をぬいた。さすがに空腹にたえかねて、彼女があのボーイを呼んでトマトサンドイッチ(これは一番安くて、当時10セントであった)とオレンジジュース(当時3セント)をとりよせたのはその午後だった。翌日、オクラホマの大草原。疾駆する馬上のカウボーイの一群が、はるか遠くに見えた。彼女はもう一度ボーイを呼んでトマトサンドイッチとジュースをたのんだ。「ミス。なぜ食堂に行かないのかね。食堂にも安いものはあるよ」「気持ちがわるい」「病気かね、ミス。そうだ、病気だよ、あんた。どこまで行くね」「モンロビア。モンロビアの病院…」。
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