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踏み直し

更新日:2023年7月28日

 詩篇七七篇には、「私は主のみわざを思いだす。私は、いにしえからの、あなたのくすしきみわざを思いだす。私はあなたの全てのみ業を思い、あなたの力あるみ業を思い出す」(11〜12節)とあり、何度も「思う、思い出す」ということばが使われる。何を思い出すのかといえば、神がモーセを用いてなされた旧約聖書中最大のみ業、つまりイスラエルの民の紅海渡渉であり、出エジプトのことである。それがイスラエルにとって思い出すべき救いの原点だからである。

 これは今から三四〇〇年も前、何百万というイスラエルの民が、エジプトでの奴隷生活から解放されて、約束の地、カナン(イスラエル)に帰るというストーリーであるが、これがどのように新約聖書で再度掘り起こされ、それが完成にいたっているかを語る時に「踏み直し」という言葉を使う。というのは、新約聖書の出来事は、すべて、旧約聖書の出来事を再述しているからであり、それによって救い主イエスがそれらをどのように完成しているかを語るのが、新約聖書の存在意義だからである。そこで主の踏み直しを見てみよう。

 さて、出エジプトが意味するところは奴隷解放であり、それが新約聖書によって再術されることによって、後世の私たちが、その本来の意味を知るためである。つまり、かつてイスラエルがそうであったように、現代の私たちも罪の奴隷であり、そこから私たちを「出エジプト」、つまり解放させるために、今度はイスラエルのみならず、全世界の人々をカナンならぬ「天のカナン」という本来の約束の地に導くのが救い主なるイエスであり、それが「踏み直し」の意味である。では、なぜ神はそのようにして私たちを救おうとされたかというと、それはひとえに神が私たち一人一人を分け隔てなく愛しておられるからである。

 しかも、その愛とは、「罪の支払う報酬は死である」(ローマ六・23)とあるように、罪の行き着く先が死であり、それは裁かれなければならない哀しい人間の定めであった。そこで主はその泥沼の様な中で呻吟する私たちを救うために、自らそこに入って私たちを引き上げ、私たちに代わって裁かれたのであった。それが十字架である。そのように私たちは、自らを振り返り、主によって「踏み直し」てもらわなければならないお互いであることを知るべきである。

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