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岩木山

 アメリカに帰る日が近づいたある日、買い物ついでに大鰐駅前のレストランに入って兄と私たち夫婦で一緒にランチをすることにした。そこは田舎に帰った時に、しばしば立ち寄るなじみの食堂だ。窓際に陣取って、いざ食事をしようとしている時だった。隣に座っていた啓子が、「あの谷間の向こうに見えるのは何ていう山?」と尋ねてきた。そこで僕が目を凝らして見ると、なんと岩木山の山頂ではないか。僕は思わず「えっ、ここから岩木山が見えるんだ!」と叫んでいた。兄も、「知らなかった!」と叫ぶ。お互い、何年もここに住んでいながら、大鰐町内から岩木山が見えるなどとは思ってもいなかったのだ。

 大鰐はりんご畑に囲まれた盆地になっているので、僕はそれまで、大鰐を出ないと岩木山は見えないものとばかり思っていたが、行きつけの食堂から、しかも、窓際の二つの座席だけから見えるのだ。これは大発見だ! 試しに店員さんに、「この席から岩木山が見えることを知っていましたか?」と尋ねると、「知りませんでした!」ときた。もう一人の店員さんに同じ質問を投げかけると、同様の答えが帰ってきた。僕は鬼の首でもとったような気持ちだった。

 いつもなら、大鰐を出るとまもなく岩木山の勇姿が現れる。それが励ましだった。津軽の人たちは、古来この山を「お岩木やま」と言って崇め、故郷のシンボルとして慣れ親しんできたし、文化面のあらゆる分野で詠まれてきた。 

 明治時代には、弘前出身のジャーナリストで、正岡子規を育てた陸羯南(くがかつなん)という人物が、次の詩を詠んでいる。「名山名士をいず この語 久しく相伝う 試みに問う 巌城(がんじょう・岩木山のこと)のもと、誰人か天下の賢なるぞ」。これが僕の母校正門の石碑に刻まれている。時の校長・小田桐孫一がこれを紹介してくれた時、一同の心は踊ったものである。主イエスを信じている今、僕は信仰を全うすることが「賢」の意ではないかと思っている。

 詩篇一二一篇冒頭に、わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る」とある。岩木山を見るたびに、羯南の詩が思い出されて心が引き締まると共に、主の豊かな助けの中で、これからも信仰の高嶺を目指して登り続けようと願っている。

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