先月(8月)の役員会でのことだ。そこには僕の以前に牧会していたオレンジ郡教会の榊原のぶ牧師が出席するので、その教会の話題になった。誰それさんが礼拝に来れなくなりました。あの人は日本に帰りましたとか、僕にはやはり気になる動向である。その中で、熟年になると、英語を忘れる人がいますねという話になった。あの姉妹もそうでした。この方もそうでしたよと言う。普段は英語で家族と生活していた人たちも、愛する人を天に送り、一人でナーシングホームなどに入ると、英語を忘れ日本語だけになってしまうというのだ。
そこで僕は思った。やがて僕も熟年になる時(もう僕はその領域に両足を突っ込んでいるのだが…)、英語どころか、日本語も忘れて、津軽弁だけになってしまうのではないかと。そうなったら、一体、誰が通訳してくれるのだろうかと危惧してしまった。日本語だったら、日本人であれば、誰でも分かるが、津軽弁は発音からして、日本語じゃないと言われているので、ちょいと心配である。当初、再婚した家内に津軽弁の特訓をしたことがある。その第一歩として、トウモロコシを「きみ」と言うが、その発音からやってみた。だが、その「き」が言えない。日本語にはない独特の発音なのである。そこで家内が言った。「そこからして、もう津軽弁はもうできない!」とあっさり断られてしまった。
発音というと、このようなこともあった。5才になる孫のことだが、幼稚園に行ってて、そこで、いろんな言葉を覚えてくる。僕たちとの会話では英語でまくし立ててくるのだが、とてもじゃないが、彼の英語の発音には敵わない。特にRとLの「ワールド」という言葉は、僕は今でも発音できないが、それをいとも簡単に言ってのける。そこで感心して言う。「綺麗な英語だね」って。
ペテロも発音で苦労したようだ。主イエスが捕えられ、エルサレム市内にある大祭司の庭で裁判にかけられている時、彼もそこに居て、周りの人々から、「言葉づかいであなたのことがわかる」(マタイ二六・73)と言われている。彼はエルサレムの東北にあたるガリラヤ出なので、イエスの弟子に違いないと思われたのだが、彼は言下にそれを否定した。主の一番弟子でありながら否んだのだが、地方出身なので彼はなまっていた。そこに僕は親しみを感じている。
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