今回は、恒例の「サンタバーバラ夏季修養会」で、早天祈祷会のご用をした時のお話をしよう。説教のタイトルは、「燃えよ、ホーリネス」で、パウロの叫びである「霊に燃え、主に仕えよ」(ローマ一二・11)を中心聖句としている。
イザヤという預言者は、紀元前八〇〇年前の人物である。その彼の書の6章に二人の天使セラピムが現れる。天使は六つの翼を持ち、その二つで顔を覆い、二つで足を覆い、二つを持って飛ぶ。天使たちは二人で互いに呼びかわし、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。その栄光は全地に満ちる」と叫んでいた。彼らは、神の前にただ神のきよさを叫び続けるが、その声によって神殿が震えたとある。大地が震える大音声であった。イザヤはその時、神を見ている。当時、神を見た者は死ぬと言われていたので、思わず「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と叫んでいる。イザヤは、聖なる神の前に改めて自分の汚れと罪深さを示され、きよい神の前に打ちのめされ、砕かれたのであった。
その時を待っていたかのように、否、その時だからこそ、セラピムが神殿の祭壇から、燃える火の炭を取ってきてイザヤの唇に触れ、「あなたの罪はゆるされた」と言った。イザヤの「きよめの経験」、「ホーリネス経験」である。
僕の経験を紹介しよう。東京聖書学院でのことだ。卒業を間近にしながら、「きよめの経験」がなかった。それがないと、伝道者・牧会者として不十分だと、耳にタコができるほどに言われていたので、次第にあせりを覚え始めていた。その頃、都内の各神学校が集まり、「ウェスレアン・ホーリネス教団・淀橋教会」で集会が開かれたのだが、その時、神は峯野龍弘先生の口を通して僕に語られたのである。「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ六・11)と。そうだ、自分が罪に対して死んでしまっているのなら、それに惑わされる必要はなかったのだ。神がすでに解決しておられたのだ! 僕はそのお言葉で、神に遣わされて行くという確信が与えられたのである。
北米では、河辺貞吉の「きよめの経験」が発端となって、一八九八年、サンフランシスコのメソジスト教会で日系人教会最大のリバイバルが起きている。
Comments