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心の目が開かれる時

 主イエスは、ご自分が十字架で殺されても、よみがえるべきことを知っておられ、それを予言されておられる。マタイ二〇章に「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう…そして彼は三日目によみがえる。」(18&19)とある。主は三度もこの予言を弟子たちに語っているのだが、彼らの心には届かなかった。主が実際に十字架に死んで復活されても、それを愚かな話のように思った(ルカ24・11)とさえある。弟子たちに主の十字架と復活の出来事はノンセンスでしかなかった。

主が直接語られたにも関わらず、なぜ弟子たちは聴く耳を持たなかったのであろう。それは彼らの心の目が開かれていなかったからだ(ルカ24・31&45)。神の国は人知では計り知れず、聖霊によってしか理解できない世界なのである。

さて、この心の目が開かれる体験が、ルカ福音書二四章の「エマオの途上」に記されている。主イエスの復活の朝、二人の弟子がエルサレムからエマオという町に帰る途上にあった。そこに復活の主が近づいて来られて一緒に歩くことになったのだが、弟子たちはそれが主だとは判らなかった。彼らの目が開かれたのは、夕方になり、宿で共に食卓についた時、パンを手渡された主の御手に十字架の傷跡を見た時であった。復活されても手足に釘打たれた十字架の傷跡は残されていたのである。それこそ主が私たちの罪のために死なれた証拠であり、罪のないお方が私たちのために血を流されたことの動かぬ証拠であった。

弟子たちがその手の傷跡を見た瞬間に、彼らの心の目が開かれたのだが、なぜそれによって彼らの心の目が開かれたのかといえば、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント一二・3)とあるように、そこに聖霊が働かれたからであった。主の十字架を見上げる時に聖霊が働かれ、それによって私たちは初めて信仰の世界に心開かれるからである。

主の十字架から二千年も経った今も、私たちの心の目が開かれるために、同じ聖霊が「私たちの心に溢れるばかりに注がれている(ローマ五・5[エマオ出版訳])。聖霊によって「神の愛」が注がれるとき、頑なな私たちの心が開かれるのである。主の十字架の愛だけが私たちの心を開く唯一の鍵だからである。

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