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日系ペルー人の痛み ②

 アメリカがペルーに住む日系人をこのような捕縛をしたのは、親日国であるペルーに住む日系人の所に日本軍が上陸して、同国在住の日系人と協力して立ち上がり、アメリカの脅威となることを恐れたためだった。

 終戦になっても、クリスタルシティーに収容されていたペルー日系人は、本国に帰りたくても「不正入国者」とされて帰還は許されず、ぺルーに残された家族も永住権をもたない者の家族としてアメリカ入国は許されなかったし、アメリカ政府自身も彼らをペルーに送還することはしなかった。そのような中で1946年8月、ニュージャージー州のアメリカ最大の冷凍食品・包装工場の一つ「シーブルック農園」が、日系人を身元引受人として引き受けてくれた。

 一方、シカゴで身元引受人のスポンサーを見つけることができた人々は、定期的に移民局に出頭して報告する条件で、シカゴに行くことができた。この理不尽極まりない不安な生活は、1955年に送還停止が決定するまで続いた。

 このような艱難辛苦を乗り越えてきた日系ペルー人の中の、ある信仰者たちは伝道熱心で、教会役員などの働きをする人々がおこされ、シカゴ日系人教会の霊火を燃え立たせてくれた。教会が新会堂を建設する際にも、彼らの根性と信仰は困難な状態から打開策を見出し、一世・二世と共に新会堂を実現させた。また日本からの旅人や留学生をもてなしてキリストの愛を実践してくれた。

 

 家族とも引き離されたペルー日系人たちの痛み苦しみは計り知れないが、それによって、困難の中にある者たちの力になることができたのである。「 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う」(ヤコブ書5・10)とヤコブは語るが、主イエスを信じる信仰によって、痛み苦しみの向こうに、豊かな主の幸いがあることに目を留めたいものである。

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