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キリスト教とは ⑥

 このようにしてみると、貧しい者への配慮はもちろんのこと、病める者、見捨てられた者、弱い立場にある者、女性たちに対する愛と憐れみの例は、枚挙にいとまがない。新約聖書はその種のメッセージで数多く彩られている。

 使徒パウロはピリピ書で、「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、己を低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(二・6〜8)と語る。旧約聖書のすべての預言の成就者として来られたイエスは、僕(しもべ)、つまり奴隷として来られたというのである。いったいどこの誰が、何の自由もなく、主人の言いなりになり、鞭打たれ殺されても文句ひとつ言えない奴隷にまで成り下がることができるだろうか。しかし、それこそが主イエスの偽らざるお姿なのであった。そもそも、私たちは自分の罪のゆえに裁かれ、死に定められていた者たちであったが、主ご自身が私たちの身代わりとなり、十字架で死んでくださったのである。その主の愛は無償であり、一方的であった。それほどに主は、私たちを愛するために、身を低くされ、へりくだられたのである。

 とは言え、その主の愛は決して報酬を求める愛(つまり、私たちの応答を求める)ではない。もとより、私たちには主が為してくださった十字架の愛に、お返しなどできるようなものは、何一つ持ち合わせてはいない。だが、たとえ私たちが、取るに足らないものであったとしても、主の愛に応えるものがあるとすれば、それは私たちが心を貧しくして神の前にへりくだることなのである。

 主は心貧しく、へりくだる者に福音を伝えるという人類最高のニュースを手渡すために来られた訳であるが、旧約聖書全体を通して、世々の初めから主が伝えたかったメッセージとは、この「心の貧しさ」に尽きるといえよう。長々と書いてきたが、実はこれが「キリスト教」である。この紛争の絶えない、殺伐とした世にあって、お互い同士が神と人の前にへりくだったとしたら、世界はどんなに平和であろうか。今、求められているのは、この主イエスの教えである。これが神の知恵であり、人間の本来あるべき姿ではなかろうか。(完)

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