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《2019年石叫ライブラリー》日付をクリックすると『石叫』をお読みいただけます。
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2021.1.3 ローマ人への手紙1:16-17 杉村宰師 「私は福音を恥としな
00:00 / 19:27
2021.1.3 ローマ人への手紙1:16-17 杉村宰師 「私は福音を恥としな
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2021.01.10 榊原宣行師 申命記24:22「救いを記憶して」
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2/28/21
2/28/21
アーバイン日本語キリスト教会 Irvine Japanese Christian Church


タッキーのやっぱり聖書でしょ
ヨハネ9章に盲人の話が出てきます。男性は生まれつき盲目という深い苦しみの中にいました。 でも、この不運とも不幸とも思える彼の境遇でしたが、彼に苦しみがあったからこそ、イエス・キリストに出会い、奇跡を通して「神のわざ」が周囲の人々やパリサイ人に示されました。苦しみがなければ、彼はイエスを信じることも、周囲に力強い証しをすることもありませんでした。 日本人クリスチャンで、身体的な苦しみの中で、本当に限られた体の一部しか動かせなくなってしまったにもかかわらず、神様を信じ、神様を賛美し、神様の証し人としてこの世での生涯を終えられた二人を紹介したいと思います。 水野源三さんと星野富弘さんです。 水野源三さんは、1937年(昭和12年)1月2日から1984年(昭和59年)2月6日までの時代を生き、47歳で亡くなりました。 9歳の時に集団赤痢により脳性麻痺を患い、目と耳以外の身体機能を失いました。しかし12歳の時に地元の牧師から贈られた聖書に出会い、キリスト教の信仰を持ち、18歳で母親との「まばたき」によるコミュニケーションで詩作を始めました。47歳で多くの心
Rev. Jun Takii
20 時間前読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
黙示録21章で、新しい天と地についての描写があります。 「神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 天国では悲しみも嘆きも苦労もない、とあります。では、なぜそこで神はそこにいる人たちの目の涙をぬぐい取ってくださるのでしょうか。 それは、もしかしたらこの世での「失った機会 lost opportunity」に対する後悔の涙かも知れませんね。 『シンドラーのリスト』という映画があります。これは、第二次世界大戦中にドイツ人実業家オスカー・シンドラーが、1100人以上のポーランド系ユダヤ人をナチスの強制収容所送りから救い出した実話をベースにした1993年のスピルバーグ監督の映画です。 金儲けのためのにドイツ人実業家のオスカー・シンドラーは1939年に工場を入手しました。その後、戦争で一儲けしようと軍幹部に賄賂を贈り、安価な労働力として多くのユダヤ人を雇い入れ、事業を大きくしていきます。 次第にナチスによるユダヤ人への迫害が激しく
Rev. Jun Takii
8月16日読了時間: 4分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
交通事故があった際には、2つの車両が来ますよね。 1.警察・・・その事故の状況を調べ、どちらが悪かったのかを決める。そして罰を与える。 2.Paramedic(パラメディック)救急救命士や救急医療隊員。その事故の状況がどうか、どちらが悪いかとかまったく関係ない。怪我している人がいたら助ける。 皆さんの周りで、何かが起こった時の周りの人たちへの態度はどちらでしょうか?人を責めがち?どちらが悪いか良いか決めたがる?それとも、とにかく苦しんでいる人がいたら助ける? 神が人となって来られてイエス。人を裁くためではなく、救う為に来られました。 イエス・キリストはヨハネによる福音書 12章47節で、「私は世界を裁くためではなく、救うために来た」と語られています。 イエスは失われた人々を捜し出して救うために来られました。人々が信仰によって暗闇から光へと歩めるよう、命の光を提供されました。 十字架の死と復活によって、人間の罪の身代わりとなられました。 何かつらい事や何か悲劇が起こった時に、その理由は何かと探してしまう。自分が悪かった、人が悪かった。...
Rev. Jun Takii
8月9日読了時間: 2分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
現代は本当に情報が溢れている時代です。聖書の言葉についてもそうです。 昔と比べたら本当に恵まれた時代だと思います。昔はその教会やバイブルスタディに行かないと聖書の話は聞けなかった。借りて来たメッセージのカセットテープを聞いたり、本を読んだりと、得られる情報は限られていました。今はYouTubeに行けば、世界中の聖書教師や牧師たちのメッセージ動画が見れます。 ただ、気を付けてください。誰の言っている言葉を信じるか。何を信じていいのか。どんな言葉にも飛びついてはいけない、無防備であってはいけない、と本当に思います。 キリスト教関係者の言葉なら、すべて信じて良いというわけではない。牧師というタイトルが付いた人の言葉なら、無条件に信じてしまうというナイーブであってはいけない。全く知らない見たことも聞いたこともないようなクリスチャンや牧師のメッセージが、お勧め動画に出てきて、その人のバックグラウンドとか全く調べずに、ガードを下げてその人の主張などを聞いて、何の疑いもなく聞き入って信じてしまう、というのは危険だと思います。 クリスチャンは、全くの無神論者に比
Rev. Jun Takii
8月2日読了時間: 2分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
ヨハネ8章の最初に、姦淫の罪の中で捉えられた女性が出てきます。 これは完全にイエスを試そうとしてセットアップされたもの。聖書にそう書いてあります、「イエスを告発する理由を得ようと、試みて(6節)」と。その為にこの女性は律法学者やパリサイ派の人たちに利用され、罠にかけられたんです。しかもこれから石打の刑に遭って殺されるかもという。どんなに惨めで悔しかったことか、辛かったことか。 愛を解いてきたイエスが、この律法に反することをした女性に対してどのような反応をするのか、それが試されていた。もしこの女性の罪に対して何も対処しなければ、律法を軽んじるということになる。またその律法の通りにこの女性を石打にするのであれば、イエスに愛は無いと言うような、どうしようもないジレンマにイエスを陥れようとしていた。どちらに転んでもイエスに対する評価が悪くなるようなもの。 当時この結婚以外の性的関係(姦淫)とは、石打で死刑に値するものであった。その律法学者やパリサイ派たちの罠に対してのイエスの反応は?イエスは土に何かを書いていた。何を書いていたのだろうか?...
Rev. Jun Takii
7月19日読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
今週火曜日から金曜日までサンタバーバラの修養会に行ってきました。 ホーリネス教団に来て、初めて家族と一緒に全期間参加した修養会でした。 ありきたりの言葉かもしれませんが、本当にたくさんの愛する兄弟姉妹の皆さんとあのような形で、恵みと祝福に満ちた四日間過ごせました。本当にこの世界中のどこに行くのにも勝る最高のバケーションでした。 日本人クリスチャンがたくさんいるホーリネス教団の中に長いこといる人たちにとっては、もう当たり前すぎているかもしれませんが、このアメリカの地にてあのような形で多くの日本人クリスチャン達と交わりができ、同じ信仰また教団に属する者としての連帯感を持つ仲間であり、信仰の家族がたくさんいると言う事は、本当にすごいことです。 僕はアメリカ人教会で信仰を持ちましたし、これまでのクリスチャン生活の中でアメリカ人教会の中に身を置いていたことが大半ですし、英語に関しても聖書に出てくる英語であれば問題なく理解できるという自負はあります。でも、やはり日本人ですから、あのように日本語で話し、また交わりを持つというのは特別で格別です。...
Rev. Jun Takii
7月5日読了時間: 2分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
最近、皆さんは神様から何かチャレンジを受けたことがありますか?何か自分から出た考えじゃなくて、神様が何かをするように語り掛けられたことが。 それは、聖書を読んでいて何か感じたとか、祈りの中で神様がこう言っているんじゃないかとか、また人や状況を通して、などなど。 必ず皆さんは何かしら神様からの声というか、語りかけ、促しというか、チャレンジというか、そういうものを受けると思います。それを聞いた時に、それを感じた時に、その声を無視するか、それとも「はい、私がここにおります。私をお用いください」と応答するか。 これからも何度も言うと思いますが、神様はボクらのAbilityと言うよりは、ボクらのAvailabilityが必要なんだと思います。 自分にはできそうもないことでもとりあえず一歩踏み出してみて、後は神様がどう動かれるのか見る、神にチャンスを与える、ということをやって行きたいと思いませんか。 「何が起きているか説明できるなら、それは人間の力や努力によって成ったのであって、神の業ではない」と、よく言われます。神の業、奇跡というものは、一般常識では説明で
Rev. Jun Takii
6月28日読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
今年の年間聖句にヨハネ3:16を選び、礼拝でのメッセージではヨハネの福音書をこれまでやってきています。それは、「信仰による救い、ただ信じるだけで救われる」、ということについて皆さんに再認識・再確認していただきたいという思いからです。 なぜなら、「救われるには信じるだけ、なんてそんなこと言っても、いくらなんでもさすがに救われる為には○○はする必要はあるでしょ」という、もっともらしいことを言う人たちがキリスト教界にはいるからです。 人が天国に行く為には、宗教は「Do(何かをしなさい。自分の行いによって天国に行く努力をしなさい)」と言い、それに対してキリスト教は「Done(全てはイエスが完了した。だから、ただ信じ受け入れるだけ)」と言います。我々人間が持つ神に対して負っている負債を、イエスが十字架の上で完済してくださったわけです。 イエスの十字架の上で死ぬといういけにえが神に受け入れられたということを示すのが、復活です。イエスの犠牲が、私たちの罪のいけにえとして十分であった、罪の罰の支払いが完了したことを示しています。 また別の例として、昔の神殿の中に
Rev. Jun Takii
6月21日読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
ガラテヤ人への手紙という書は、聖書の中では短い書(手紙)ではあるけど、我々プロテスタントクリスチャンはこの書に借りがある。それは、ルターがこの書を持って宗教改革を始めたから。 彼はこの書について「ガラテヤ書は私の書物だ。私はこれと婚約した。これは私のKatieだ」と妻Katieのような書だとまで言った。 ローマ書はパウロの頭から出た書、ガラテヤ書はパウロの心から出た書だ、と言われる。 人は罪びと(神から離れ自己中心的で、的外れ)で、義人は一人もいない、とこれは聖書の一貫したメッセージです。 律法の目的は人にそれを完璧に守らせるとか、それを行なって罪をなくすのを意図するためにあったのではなく、人が罪人だと知らせるためのもの。 そういう意味では律法は『体温計』のようなモノだと言われます。体温計が人を癒すわけではない。体温計はただ人に熱があるかどうかを知らせるだけ。 ではどうやって人は救われる(罪が赦される。天国に行ける)のか?聖書は人が救われるのは、イエスを信じる信仰によると言います。神がすでに示してくれた十字架でイエスという完璧ないけにえを捧げられ
Rev. Jun Takii
6月14日読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
「十年選手」という言葉がありますが、これは例えばスポーツや特定の職業などで10年以上の選手生活やキャリアを持つ人のことで、長年その仕事や道に従事し、豊富な経験を積んで熟達した人のことを指します。十年間も何かをしていれば、かなりのベテランです。やはり年数というのは大事だと思わされます。 「聖書を伝える、聖書を教えるのは牧師(のみ)の役目だ。神学校に行った者のみが聖書を教える資格があるんだ」という、日本のキリスト教界にある間違った偏見をなくして欲しいとボクは常々思っています。「神学校やバイブルスクールに行ってないと、聖書を教えられない」という間違った思い込みが、大なり小なりありませんか?日本の教会では、「献身者」と「一般信徒」と二分化してしまっているところに、この悲劇の始まりがあると思うんです。 新約聖書の「ヘブル人への手紙」5章12節にこうあります、 「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず・・・」 この箇所は、信仰の期間が長いのにもかかわらず成熟しておらず霊的な成長が止まっていて、基本的な教理を学び直さなければな
Rev. Jun Takii
6月7日読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
旧約聖書のイザヤ書6章8節に、預言者イザヤが神の幻を見た際、神が 「誰を遣わすべきか。誰が私たちのために行くだろうか」 と呼びかけました。そこでイザヤは自分の不完全さを自覚しつつも、神の呼びかけに対して 「ここに私がおります。私を遣わしてください」 と志願した、という出来事がかあります。今日でも、この箇所のフレーズは、神様からの呼びかけに応えて、どこかに出ていく際によく引用されます。 全ての日本人クリスチャンには当てはまらないとは思いますが、ボクがこれまでに見て来た日本人クリスチャンの多くには、変な間違った先入観というか固定観念があって、「私は神学校に行ってもいないし、牧師でもないから、神様のことを人に伝えることはできないんだ。そのような資格はないんだ」と何となく思っている人が多かったです。「伝道とか説教をすることは、宗教の専門家である”献身者”がやるんであって、私のような一般クリスチャンには関係のないことだ」という間違った思い込みがないでしょうか?また聞く側としても、「牧師の語る聖書の話でないと、聞く価値がない」というこれまた間違った先入観がな
Rev. Jun Takii
5月31日読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
クリスチャンの生き方として、よく「たった一人のオーディエンス(観客)がいると思って生きなさい。その方を喜ばせる為に」と言われます。 もちろんこの「たった一人のオーディエンス」とは神の事です。 人を見て、人を喜ばせようと集中して生きるのでななく、神に集中して神を喜ばせようとして生きる。 パウロは、「今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではない」と言っています(ガラテヤ1:10)。 そのことを考えると、あるピアニストの話を思い浮かべます。 あるピアニストが大きなコンサートホールで演奏した後、もう会場では皆が割れんばかりの拍手、スタンディングオベーションでした。 しかし彼女は喜べなかった。なぜでしょうか?それは、会場の中にたった一人、全く喜んでいなかったばかりか、ものすごく不満そうな顔をした人を見つけたから。 その人は、彼女のピアノの全てを教えてくれて、彼女のピアノの演奏の全てを知っていた人。彼女のピアノの先生。 「あなた、他の人の目と耳はごまかせたかもしれない。上手く演奏しているように見えたかも知れない。でも私は全て分かってい
Rev. Jun Takii
5月24日読了時間: 2分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
ヨハネ6章に出てくる、大勢の人たち(男性だけで5,000人)を一人の少年のわずかな弁当で養ったという話ですが、これは全ての4つの福音書に書いてある唯一の奇跡です。(もちろん復活以外で。) しかもヨハネの福音書では、イエスのミニストリーの真ん中あたりの2年間をこの6章に凝縮してあります。3年ほどの公生涯の真ん中の2年間をこの6章だけに記した。いろんなことがあっただろうに、それをこの6章だけに凝縮して記した。その中の一つがこの群衆に食事を与えたという出来事についてです。 私たちは、飲み食いの記憶というものはすごく強烈に残っているのでは、と思います。誰かと食べに行った時のこと、また食べる物がなく腹ペコの時に腹いっぱいになるまで食べた時の記憶というものは、特に記憶に残りますよね。 一週間前の教会でのメッセージの内容は覚えてなくても、「誰々と、どこどこに食べに行った。何を食べた。美味しかった」というようなものは、何十年経ってもよく覚えているのではないでしょうか?特に、食べれない時に、食事を出してもらった、ってすごく後々まで忘れずに感謝しますよね。...
Rev. Jun Takii
5月17日読了時間: 4分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
Happy mothers' day!お母さんたち、いつもありがとう!! 皆さん、「献身している人」と言ったら誰を思い浮かべますか? 私の言ってる献身者と言うのは、何も教会の中でしか通用しない牧師だとか、宣教師だとかのみを指す「献身者」ではなく、誰かのために自分の自由や身を捧げている人たちのことです。そう考えたら、母ほど献身者という表現がふさわしい人はいないんじゃないか、と思います。 検索すると「献身者(けんしんしゃ)」とは、自分の利益を二の次にして、特定の人や物事のために身も心もささげて尽くす人を指します。 もっと言うとボクら神を信じ、神に従う者は、何をしていようがどんな職に就こうが全て献身者であるべきだと思いませんか? クリスチャンとして献身して会社員、アスリート、献身して主婦、献身して学生、献身してリタイヤした人、献身して倉庫のワーカー、献身してドクター、エンジニア、セールスマン、教師、などなど。 牧師だけが献身者では決してない。献身している場所が違うだけですよね。 さて、今日は母の日、特に母親は献身者ですよね! 赤ちゃんがおなかの中にい
Rev. Jun Takii
5月10日読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
母の日が近いので、それにちなんだ話を。 皆さん、「献身者」と言ったら誰を思い浮かべますか? ウェブで検索すると「献身者」とは、「自分の利益を二の次にして、特定の人や物事のために身も心もささげて尽くす人」を指すそうです。 そう考えたら、母ほど献身者という表現がふさわしい人はいないんじゃないでしょうか? 赤ちゃんがおなかの中にいる時だけではなく、子供が生まれてからも自分を犠牲にして子育て。育児の為に仕事を変えたり、時には退職までしたり、自己を犠牲にして子育て。これほどまでに子供に尽くすなんて!これほどの献身者はないと思います。 自分の都合なんて後回し。子供の都合が最優先になるんですから。 前回バタフライエフェクトについて少し書きましたが、些細な出来事が後になり思いもよらない結末に繋がるってことあるんですよね。 母親の子供たちに対して今やってくれていることが、いつか大きな影響力となり次の世代に残る。すごいことですよ、母親の役割の大きさ、価値、影響力って。 今この世の宝の価値なんて、天国に行ったら大したものではなくなります。 例えば、どこかの国から来た
Rev. Jun Takii
5月3日読了時間: 2分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」、と聖書は言います。(エペソ人への手紙4章32節) NHKの番組に、『映像の世紀バタフライエフェクト』というのがあります。番組のテーマ・内容は、歴史上のささやかな出来事や人物の行動が、いかに連鎖し、世界の運命を動かしたかを描くドキュメンタリー番組です。「一羽の蝶の羽ばたきが嵐を起こす」、それは蝶の羽ばたきのような、ひとりひとりのささやかな営みが、いかに連鎖し、世界を動かしていくのか、を紹介しています。この「バタフライエフェクト」というフレーズは、「小さな出来事が、最終的に予想もしなかった大きな結果につながる」という因果関係を強調する比喩的な表現です。 私たちが与えるほんの小さな親切や心配りが、周りの人の人生のコースや運命を、劇的に変えてしまうことってあるんですよね。 昔こんなことがありました。ボクが学生でアメリカに来たばかりの頃、とあるアメリカ人の家に一部屋借りて住むことになりました。すぐに簡単な生活に必要な物などを購入して、やっ
Rev. Jun Takii
4月26日読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
またかと思われるかも知れませんが、また2列王記7章に出てくる4人のらい病人の話です。 当時、彼らの町サマリアは包囲されていて、アラムの軍隊が彼らを囲んでいた。 その町はアラムによって包囲されていて兵糧攻めにあっていてインフレはひどいもので(6章の後半)、鳥の糞でさえもものすごい値がついていた。牛の頭などは一人の年収以上という高価なものになっていた。今アメリカでのインフレもすごい、でもアメリカのインフレなんかとは比べ物にならない位の物価の上昇がそこにあった。 そこで動いたのは誰か。らい病と言う病気で街の中に入れなかった4人の男たち。もう人生に対して何の希望もなかった、ただ死を待つだけだったかも知れない彼ら。彼らは町が大飢饉であったので、もちろん彼ら自身はそれまでもひどい対応を受けていただろう。 「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれる
Rev. Jun Takii
4月19日読了時間: 2分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
今回は、最近趣味になっているウクレレについてです。よく見るウクレレ動画で、山口岩男さんという日本を代表するウクレレプレーヤーがこのように言っていました。 『最近の日本のウクレレレッスン動画を見ていると、とにかく「あれはいけない」「これはいけない」といった**「禁止事項」**が多すぎると感じます。 「親指を出してはいけない」「正しい持ち方はこれだ」といった画一的な指導は、一見親切に見えますが、実は教える側が「なぜその動きになるのか」を説明する手間を省き、楽をしているだけではないでしょうか。何も知らない生徒さんに対して、自分の「型」を上から押し付けるような姿勢には、強い違和感を覚えます。 海外の奏者たちを見れば分かりますが、持ち方は千差万別で、誰も「型」なんて気にしていません。ウクレレは本来自由な楽器です。ひたすら弾き込む中で、自分の体格や動きに最適化されたスタイルこそが、その人にとっての「正解」になるはずです。 視聴者の方からも「適当といういい加減で自由な弾き方が好き」という声をいただきますが、まさにその通りだと思います。音楽は「型」にハマることで
Rev. Jun Takii
4月12日読了時間: 3分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
この日曜日はイースター、復活祭です。主イエスが私たちの罪の為に死なれ、十字架に付けられ、死んで、墓に葬られ、3日目によみがえったことを、私たちクリスチャンが祝う日です。死をもovercame(克服した、乗り越えた、打ち勝った)したのがイエス。 でも、「一度死んで葬られた人間が、3日目によみがえるなんて、そんなことあるわけねーじゃん」と思われる人たちもたくさんいると思います。死んだ人がよみがえるなんてあり得ない、というのは一般的にはごくごく当然の意見だと思いますが、なぜそう思ってしまうのでしょうか?それは、「神様が存在する」という前提で話をしてないからです。神だったら何でもできたはずです。 色々なモノには前提というものがあります。その上で色んなことが成り立っています。 例えばテレビのドラマなどを見ても「このドラマはフィクションです」や、「実話に基づいた出来事です」など書いてある時があります。そういう前提を持って観ると、TVドラマや映画などの観方が変わってくると思います。 それと同様に聖書にも前提というものがあります。それは「神がおられて、全てを創造
Rev. Jun Takii
4月5日読了時間: 2分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
ユダヤ人以外に福音が伝えられ始め、異邦人(ユダヤ人以外の民)が救われ始めた初代教会。 そこで出てきた議論の一つが、異邦人もユダヤ人のようにならなければならないか、ということ。そこで起こったのがエルサレム会議(使徒15章)。 エルサレム会議で決まったことの争点は、「 異邦人は救われるために割礼を受け、モーセの律法に従う必要があるか」、というもの。救いは律法や行いによるか、信仰や恵みによるか?その答えは「今は恵みによって救われている。律法ではない」と先週書かせてもらいました。 ガラテヤ5章にて、「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださったのですから、私たちは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい(1節)」、とパウロはハッキリと言います。 割礼を強要するユダヤ人信徒たちがいた。でもそれをしたら、イエスは私たちに何の益ももたらさないことになる、と(2節)。 割礼が必要だと言うようなら、律法全体を行う義務が出てきてしまう(3節)。律法によって義と認められようとしているなら、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまう(4節
Rev. Jun Takii
3月29日読了時間: 2分
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