マンザナ収容所の下見 ④
- Rev. Tsukasa Sugimura
- 1 日前
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家族が、みな正装したその胸に荷札をぶら下げながら、子羊がほふり場に引かれて行くように、黙々と彼らは引かれていった。ただ黙々と、そして黙々と。
さらに1942年11月までに、中西部に点在する10ヶ所もの強制収容所が完成し、集合所から再移送された。その場所たるや、都市から遠く離れた砂漠のような荒野であったり、ミシシッピー河に近接する湿地帯であった。しかも四方を鉄条網で囲まれ、監視塔には機関銃が内部に向けられていたのである。
強制収容所の住居は、各収容所によってサイズが異なっているが、マンザナの場合、各バラックはプライウッドで区切られてはいたが、天井の梁の部分は何もはめ込まれてはいないので、家族のプライバシーどころか、隣の部屋の物音さえ筒抜けだった。急ごしらえで生木を使用した所が多かったため、乾燥すると、砂漠から舞い上がった砂が、隙間から入って部屋にベッドにと積もった。
共同の食堂、洗濯所、シャワールーム、トイレなども備えられたが、便器には間仕切りがなく、女性たちは利用者の少ない夜まで待ったので、腎臓障害を起こした人たちもあると聞く。またシャワールームには敷居やカーテンもないので、先に入っている人にプライベートな時間をもたせてあげようと、外で列をつくって我慢強く待った。そのため一晩中、深夜でもシャワーを浴びる人の列が続いたという。家具らしいものといえば、支給された狭い軍用ベッドと2枚の毛布、石油ストーブだけで、それらがポツンと部屋の片隅に置かれていた。
詩篇137篇冒頭に、「バビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した〜われらを苦しめる者が楽しみにしようと、『われらにシオンの歌を一つうたえ』と言った。われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか」とある。これは紀元前6世紀、ユダヤの民20万ともいわれる人々が、大国バビロンに囚われの身となった時の、屈辱と哀しみの詩歌である。日系人もまさに捕囚の憂き目に遭ったのだが、それは屈辱以外の何ものでもない。
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