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マンザナ収容所の下見 ③

 マンザナ近辺で是非訪れて見たい個所の一つは「古代滝」(Fossil Fall)である。1万年前、このシエラネヴァダ南部は氷河に覆われていた。その頃は、この辺りは氷河から流れる出る水が勢い良く流れていて、深い渓谷が出現するほどの激流が流れる川になっていた。その往時を偲ぶのが古代滝なのである。

 もう一つは、そのすぐ北東に全米48州の大陸の中で最高峰のホイットニー山(4418メートル)がある。それを見ながらのランチは贅沢だ。さらに、付近にはムービーフラットという幻想的な地形が立ち並ぶ岩山がある。一行は思わす、「ワオー!」と叫んだ。そこは数多くの西部劇映画が撮影された地であり、花崗岩の風化で出来たブリッジやトンネルが幾つもあり、ホイットニーを背景にブリッジの中に座っての一枚は、「映え」るので、訪問者を魅了する。

 さて、肝心のマンザナだが、今回は帰りの時間を気にすることもなく、じっくりと見学することが出来た。まずこの強制収容所についての話をしよう。

 1942年2月19日、フランクリン・ローズヴェルト大統領によって、「大統領行政命令9066号」が発令された。それによって、同年の3月18日に北米西海岸の軍事境界線内在住の12万人の日系人に対し、強制収容が命じられた。その数たるや、アメリカ本土在住日系人の90%に当たる。それに伴いアリゾナ、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア各州の軍事境界線内からの立ち退きが命じられ、16の集合所(アッセンブリー・センター)が設けられた。その中で最大のものはサンタアニタ競馬場を改装したもので、2万人近い人たちがそこに収容された。それは1942年3月27日に始まる。いくら改装されたとは言え、臭気漂う厩舎である。馬の扱いと、さほど変りがなかった訳である。

  ナチスがユダヤ人の強制収容所で、彼らを番号で扱っていたように、戦時下のアメリカにおける日系人も、一人ひとりの名前ではなく、荷札を付けられた番号で扱われたのであった。日系人は最早、荷物同様の取り扱いとなっていた。

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