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キリスト教とは ④

更新日:5月3日

 ヨべルの年には、奴隷を解放し、借地は元の所有者に戻すことが定められていたので、借金や借財のある人々には手放しで喜ぶ年であっただろう。しかし、ヨベルはそれで終わらない。なぜなら、本当のヨべルはイエスによって実現したからである。イエスの到来は、人類を苦しめてきた罪と死からの解放を意味し、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と仰っているので、それを宣言されたその日にイエスがメシヤとして就任したことを意味している。

 本題に戻ろう。ルカ福音書にあるイエスの最初の宣言が、前述のイザヤ六一章の、「貧しい人々への福音」であった。主は、ご自身の生涯において、まず何よりも、心貧しく生きる者に福音を手渡すことを使命として来られたと言える。

 マタイ福音書においても同様である。主が群衆に向かって最初に語られたのが「山上の垂訓」といわれるメッセージの冒頭で、「こころの貧しい人たちは、さいわいである」(マタイ五・3)であった。主は何よりもまずこれを宣言したかったのである。だが、心貧しく生きるとは、この世界の価値観とは真逆である。この世界では富や力ある者に価値があるとされ、人々は懸命にそれを求めているが、考えてもみよ、人類の歴史を! 富み栄え、権力ある者が何をし、何をして来たかを。とどのつまり、それは自分中心の生き方ではないか。そこには平和はなく、絶えざる争いがあるだけである。そうなると、自ずと、それとは逆の立ち位置にある、心貧しき者の幸いが見えてくるというものである。

 では、主の伝道のみ業がどのようであったかを聖書から見てみよう。そこにある奇跡のみ業、教えなどはすべて、心貧しい者への愛とあわれみに満ちる。

 ルカ福音書では、天使によって、「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう」(二・10〜12)という救い主誕生の告知が宣言されている。この世紀の大ニュースは、羊飼いだけに伝えられている。本来なら、知識人や著名人たちに伝えられて然るべきニュースだと思うのだが、羊飼いという見捨てられたような人々に真っ先に伝えられたところに、「あっぱれ」と叫びたいほどの主の憐れみを見る。

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