top of page

キリスト教とは ③

 それゆえ、主はご自身を救い主として信じようとしない心頑なな人々に対して、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(ルカ一三・34)と言って嘆かれている。

 ここで、具体的に主が旧約聖書の成就者としてどのように来られたかを見てみる。ルカ福音書七章に、旧約聖書最後の預言者であるバプテスマのヨハネが、彼の二人の弟子たちをイエスのもとに送って、「来るべき方はあなたでしょうか」と問わせた記事がある。その時に主は答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている」(22)と。これだけを主はお伝えになった。そう、ただこれだけである! これこそは旧約聖書で待望された救い主の真の姿だという主ご自身の答えである! これを聞いたヨハネは、これだけでイエスこそ旧約聖書で約束されたメシヤなのだと悟ったのである。主がここでヨハネに伝えようとしたポイントは何かというと、「貧しい人々への福音」であり、その前に掲げられた五つの奇跡は、貧しい人々を福音に導くための伏線であり、手段であった。

 さらに、ルカの福音書はイエスがイザヤ書六一章冒頭の箇所を引用して、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」(四・18〜19)と語られたことを記している。これはナザレの会堂で主が開口いちばんに朗読された箇所で、主は「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(21)と宣言されている。「主のめぐみの年」とは、ヨベルと呼ばれ、「ヨベルの年にその畑は売り主であるその地の相続者に返るであろう」(レビ記二七・24)という、五十年目の解放という意味があり、ユダヤでは大きなお祝いの年なのである。

閲覧数:3回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page