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キリスト教とは ②

更新日:5月3日

 律法とはそれを守るようにと神が設けられたものである、だからユダヤ人たちは表向き律法を守る。だが心はついて行けないので、残るは罪意識である。しかし、それこそが律法、つまり旧約聖書の務めなのであった。それによって旧約聖書は文字通り旧(ふる)くて未完成なものとなり、新しくそれを完成する新約の時代、すなわちイエス・キリストの到来が待望されるからであった。「神は、『新しい』と言われたことによって、初めの契約(旧約)を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく」(ヘブル八・13)

 パウロはユダヤ教徒とクリスチャンの旧約聖書の読み方の違いを、第二コリント書で、次のように説明している。「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」(三・14〜16)。旧約聖書には王として来られるメシアの栄光の姿が強調され、苦しめるメシヤの姿は薄いと思われているが、それはユダヤ教徒たちが旧約聖書を自分たちの都合の良いように解釈するからであろう。だが、旧約聖書中の十字架の二大章と言われる詩篇二二篇やイザヤ書五三章には、人々の救いのために苦しむメシヤ像、つまり十字架のイエスの姿が明瞭に描かれている。つまり、私たちがイエスを信じる信仰によって聖書を読む時に、心が開かれ、心の覆いが取り除かれるのである。ペンテコステ(聖霊降臨)で聖霊を受けたペテロが宣言したように、「この方による以外に救いはない」(使徒行伝四・11)のである。

 もう一つは、旧約聖書全体の主であられるイスラエルの神が、この世に来られる(受肉)前のイエスであるとして読むことである。つまり、旧約聖書を通して語り、来るべきメシヤの苦しみと栄光を預言された神は、実はイエスご自身なのだと理解して読むことである。旧約を通して語り、行動されたイスラエルの神は、イスラエルの不信仰のゆえに苦しみ、彼らの罪をわがことのように悩み、ひいては全人類を何としても救おうとなさるイエスそのものなのである。

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