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タッキーのやっぱり聖書でしょ

ヨハネ6章に出てくる、大勢の人たち(男性だけで5,000人)を一人の少年のわずかな弁当で養ったという話ですが、これは全ての4つの福音書に書いてある唯一の奇跡です。(もちろん復活以外で。)

しかもヨハネの福音書では、イエスのミニストリーの真ん中あたりの2年間をこの6章に凝縮してあります。3年ほどの公生涯の真ん中の2年間をこの6章だけに記した。いろんなことがあっただろうに、それをこの6章だけに凝縮して記した。その中の一つがこの群衆に食事を与えたという出来事についてです。

私たちは、飲み食いの記憶というものはすごく強烈に残っているのでは、と思います。誰かと食べに行った時のこと、また食べる物がなく腹ペコの時に腹いっぱいになるまで食べた時の記憶というものは、特に記憶に残りますよね。

一週間前の教会でのメッセージの内容は覚えてなくても、「誰々と、どこどこに食べに行った。何を食べた。美味しかった」というようなものは、何十年経ってもよく覚えているのではないでしょうか?特に、食べれない時に、食事を出してもらった、ってすごく後々まで忘れずに感謝しますよね。

ボクは昔、実家の借金返済の為に、仕事でどんなに稼ごうとも全部持っていかれたので、普段の食事は食パンとバナナのみという時期がありました。ある土曜日に教会のヤングアダルトたちで、近くにできたパスタ屋に皆で食べに行こうとなったのに、ボクは行けなかった。それを宣教師が察してくれて、二千円彼の財布から出して「これで行ってこい」と言ってくれた。そのやさしさに涙が止まらなかった。あんな大きな額の、価値のある二千円には今ではなかなかあえない。食べれない時に、食事を出してもらった、ってすごく後々まで忘れずに感謝しますよね。

人にとって、やはり食べるということは重要です。「食う為に働く」などという表現もあります。イエスは本当にたくさんの色んな人たちと飲み食いをされた。だからルカ7:34とマタイ11:19で、人は彼のことを「大食漢の大酒のみ」と揶揄されたのだと思います。

何も食べ物がないような所で、皆お腹が減っていた時、その空腹を満たそうとされたイエス。非常に現実的な人だったと思いませんか?

でもそこにはほんのわずかな食べ物しかなかった。弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。」それだけ。

せっかくこの食べ物を持った子供を連れてきたアンデレ、ここまではグッジョブだったんですが、ここで「しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」と皮肉を言ってしまう始末。

でも、そんなわずかな食べ物を全員が食べて満腹するまで増やされたのがイエス。そこにそのわずかな弁当がなかったら、果たしてイエスは5千人をやしなっただろうか?ゼロから多くをされるよりも、ごくわずかなモノを用いて大きな業をなされたというケースが多いように思います。イエスが神にしかできないようなスーパーナチュラルな奇跡をなさった時に、そこに人が参加できるスペースを与えてくださるのが神のやり方なのかなぁと思ってしまいます。

子供(7-8歳くらいか?)が一人食べる分くらいの量の弁当。大した量ではなかったはずです。5つの平べったいパンと、魚も小さなもの。

何万人もの前で、持ってきたのがこれだけの食べ物。でもこんなわずかな物をも神は用いる!ハンデをひっくり返されるのが神、人が持っているモノが小さい方が神の力が現れる。

11節で、「分け与えられた」とありますが、これは継続的にずっとしていたと言う動詞で分け与え続けられたと言う意味。

その少量の食事が一気に数万人分のものボンっと一気に増えたというわけではなくて、分け与え続けられたということ。

今でも、ボクらは神に日々、日ごとの糧で養われていると思いませんか。日ごとの糧を今日与えて下さい、と祈るように教えられました。

イエスは言われました、「何を食べようか、何を飲もうか心配するな。あなたがたにこれらのものが必要なのは、あなたがたの天の父が知ってるんだから」と(マタイ6:31-32)。

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