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謙遜

 今回はフリーメソジスト教会西村正元牧師の「わかば」からの引用である。

 ある人がジョン・フレッチャーに、「神が今あなたに『もし一つ願いを叶えてあげるから、何でも言いなさい』と言われたら、何と答えますか」と尋ねたことがあった。そこでフレッチャーは「謙遜」と言った。するとその人が、「それでは神が、もし『もう一つ聞き届けてやる』と言われたら、あなたは何を求められますか」と尋ねた。フレッチャーは「謙遜を」と答えた。その人はさらに、「それでは、神がもう一つの願いをお許しになるとしたら、何と答えられますか」と言うと。「謙遜です」と答えたと言う。実にこれは有名な話である。

 フレッチャーは18世紀にスイスで生まれ、英国で信仰をもった人物である。彼はその謙遜さで知られた聖徒であり、メソジスト教会の創設者ジョン・ウェスレーと並び称される著名人でもある。彼の謙遜の証しが、今日もなお語り継がれていることを思えば、私たちが心すべきはこの謙遜ではあるまいか。

 ピリピの教会はパウロが最も愛した教会で、また最も恵まれた教会であった。しかし、この恵まれた教会にも一つの問題があった。それはユウオデアとスントケという二人の女性がいて、その二人の間に何か意見の相違があり、一致しないことがあったようで、パウロは、「どうか、主にあって一つ思いになってほしい」(4・2)と記している。同書2章冒頭にも同じような勧めがあるので、教会には他にも、同じような問題があったと思われる。そこでパウロはピリピの教会に、「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい」(2・3)と命じている。

 人は本来、謙遜という徳性を持ち合わせてはいない。お互い心の内を知れば知るほど、人の前に謙遜になることがいかに困難であるかを知らされるのである。これは教えられ、身に付けてゆくものである。だから求めるのだ。十字架の死に至るまで、奴隷のようにあなたに仕えた主イエスの従順と謙遜さを。

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