タッキーのやっぱり聖書でしょ
- Rev. Jun Takii
- 6 日前
- 読了時間: 3分
旧約聖書のイザヤ書6章8節に、預言者イザヤが神の幻を見た際、神が
「誰を遣わすべきか。誰が私たちのために行くだろうか」
と呼びかけました。そこでイザヤは自分の不完全さを自覚しつつも、神の呼びかけに対して
「ここに私がおります。私を遣わしてください」
と志願した、という出来事がかあります。今日でも、この箇所のフレーズは、神様からの呼びかけに応えて、どこかに出ていく際によく引用されます。
全ての日本人クリスチャンには当てはまらないとは思いますが、ボクがこれまでに見て来た日本人クリスチャンの多くには、変な間違った先入観というか固定観念があって、「私は神学校に行ってもいないし、牧師でもないから、神様のことを人に伝えることはできないんだ。そのような資格はないんだ」と何となく思っている人が多かったです。「伝道とか説教をすることは、宗教の専門家である”献身者”がやるんであって、私のような一般クリスチャンには関係のないことだ」という間違った思い込みがないでしょうか?また聞く側としても、「牧師の語る聖書の話でないと、聞く価値がない」というこれまた間違った先入観がないでしょうか?(この「宗教的行事はすべて宗教の専門家がやる」考えは、日本の仏教的な考えや文化から来ているとボクは思っています。)
これは別に何の根拠もないことを言っているわけではありません。ボクが過去に経験してきたことです。
例えばボクは一信徒として(牧師としてではなく)、2011年にアメリカ人教会(Calvary La Habra)の日語ミニストリーとして、日曜日に礼拝を始めました。そこである面白いことを発見しました。初めて教会に来る人たちは、ボクが牧師でなくても全く問題なく普通に聖書の話をすると聞いてくれました。しかし、そこの集まりが少しずつ大きくなり始め、噂を聞きつけて他の日系の教会に行っていたクリスチャンの人たちが来始めました。そして彼らが初めてその教会に来て、部屋の前でボクが「ようこそ!」とあいさつすると、大体訊かれたのが、「牧師さんですか?」ということでした。そこでボクが「牧師じゃないですが」と言うと、「じゃあ、誰が説教するんですか?」と言うので「ボクがします」と言うと、数名で来られた方々は互いに顔を見合わせ「あ・・・じゃあ」と、ボクの目の前で回れ右して帰ってしまったんです。せっかくクリスチャンが教会に来たのに、礼拝の前に帰ってしまう・・・苦笑。そういうことが3回ほどありました。
残念ながら「牧師からの聖書の話じゃないと聞かない」というおかしな間違った考えを持ったクリスチャンは一部(もしくはたくさん)います。でも、未信者の人たちは、語る人が牧師だろうが牧師じゃなかろうがそんなの関係なかった、というのがこれまでのボクが受けた印象です。彼らは逆に牧師じゃない方が、親近感がわいて、聖書の話を何の抵抗もなく聞いてくれた、という感じでした。
だから、まだイエスキリストの事を知らない人たちに聖書の福音を伝えるのに、「私、牧師じゃないけど、神様のことを伝えても良いのかしら?」と思ったら、ぜひ思い出してください、「そんなの気にするのは、日本人クリスチャンだけですよ」と(笑)。一般のまだ神様のこと知らない人たちは、そんなことは一切気にしないので、牧師でなくてもぜひ堂々と神様のこと、聖書の話などをしていかれたら良いと思います。
ボクたち日本人クリスチャンは伝道に関して慎重になりすぎたり、「私は牧師じゃない」など変な先入観があって石橋を叩いても渡らない場合があるかも知れませんね。
でももし神様が皆さんに「ここにまだ神様のことを知らない人がいる。私は誰を遣わそうか」と語り掛けているように感じたら、とりあえず前に出て「私がおります。私を遣わしてください」という気持ちを持たれたら良いのではないでしょうか。
いつも思うのですが、神様はボクらのAbilityは必要としないんです。ボクらのAvailabilityが必要なんですから。

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