タッキーのやっぱり聖書でしょ
- Rev. Jun Takii
- 2 日前
- 読了時間: 2分
クリスチャンの生き方として、よく「たった一人のオーディエンス(観客)がいると思って生きなさい。その方を喜ばせる為に」と言われます。
もちろんこの「たった一人のオーディエンス」とは神の事です。
人を見て、人を喜ばせようと集中して生きるのでななく、神に集中して神を喜ばせようとして生きる。
パウロは、「今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではない」と言っています(ガラテヤ1:10)。
そのことを考えると、あるピアニストの話を思い浮かべます。
あるピアニストが大きなコンサートホールで演奏した後、もう会場では皆が割れんばかりの拍手、スタンディングオベーションでした。
しかし彼女は喜べなかった。なぜでしょうか?それは、会場の中にたった一人、全く喜んでいなかったばかりか、ものすごく不満そうな顔をした人を見つけたから。
その人は、彼女のピアノの全てを教えてくれて、彼女のピアノの演奏の全てを知っていた人。彼女のピアノの先生。
「あなた、他の人の目と耳はごまかせたかもしれない。上手く演奏しているように見えたかも知れない。でも私は全て分かっている。あなたは手を抜いた。あんな演奏をして!」と言わんばかりに。
一番正しい評価のできる人から、そのように思われたら、やっぱり喜べないですよね。
この話にはその逆もあります。
あるピアニストが演奏をしていた時に、もうたどたどしい演奏で、中には途中で席を立ってしまった人たちも多かった。もう散々だった。普通に見たらひどいリサイタルだった。
でも、その演奏が終わった後、会場で一人満面の笑みを浮かべて、立ち上がって頭の上で拍手をしてくれていた人がいた。それは彼女のピアノの先生。
「他の人たちは、あなたの苦労を知らない。あなたがどんなハンデを乗り越えてここまで来れたのか。わたしはあなたがどんな苦難や障害を乗り越えて来たのかを。そして今日、自分の出来る以上のパフォーマンスをしたのを知っている。良くやった!」と。
そのたった一人の先生からの賞賛があったら、ピアニストにとってはもうそれで十分だった。
ボクらの人生においても、神様から、
「よくやった、良い忠実なしもべよ(マタイ25:21)」と言われたら、それだけで十分ではないでしょうか?

コメント