top of page

タッキーのやっぱり聖書でしょ

  • Rev. Jun Takii
  • 30false06 GMT+0000 (Coordinated Universal Time)
  • 読了時間: 3分

ガラテヤ人への手紙という書は、聖書の中では短い書(手紙)ではあるけど、我々プロテスタントクリスチャンはこの書に借りがある。それは、ルターがこの書を持って宗教改革を始めたから。

彼はこの書について「ガラテヤ書は私の書物だ。私はこれと婚約した。これは私のKatieだ」と妻Katieのような書だとまで言った。

ローマ書はパウロの頭から出た書、ガラテヤ書はパウロの心から出た書だ、と言われる。

人は罪びと(神から離れ自己中心的で、的外れ)で、義人は一人もいない、とこれは聖書の一貫したメッセージです。

律法の目的は人にそれを完璧に守らせるとか、それを行なって罪をなくすのを意図するためにあったのではなく、人が罪人だと知らせるためのもの。

そういう意味では律法は『体温計』のようなモノだと言われます。体温計が人を癒すわけではない。体温計はただ人に熱があるかどうかを知らせるだけ。

ではどうやって人は救われる(罪が赦される。天国に行ける)のか?聖書は人が救われるのは、イエスを信じる信仰によると言います。神がすでに示してくれた十字架でイエスという完璧ないけにえを捧げられたので、その恵み(自分に受ける価値はないが、与える側が寛容だから与えてくれたもの)を「ありがとう」と受け入れ、それにより罪の赦しを受けることです。

恵みですので、ボクらが代価を支払うことはできません。行いによってその代価の一部でも支払おうと思うなら、律法によって義と認められようとしているなら、そこでキリストと離れ、恵みから落ちてしまう、とあります(ガラテヤ5:4)。


ガラテヤ書が書かれた当時、ユダヤ人の律法主義者達は、恵みの福音が示されたキリスト教の中に様々な古い風習や律法を持ち込んだ。「イエスの十字架を信じるだけでは十分ではない。あなたがたはまだしなければならないことがある。昔の風習や律法に従う必要がある」と。それに強く反対してパウロが書いたのがガラテヤ書。

人はそのままにしておくと、律法主義的になり、また上下関係を勝手に作っていくもの。ルターなどが当時のカトリック教会の腐敗を正そうして、それが結果として宗教改革になりプロテスタントして別れる動きとなった。

現在の新改訳聖書は「2017年版」と言われる。1517年はドイツの神学者マルティン・ルターが「The Ninety-five Theses 九十五か条の論題」で、宗教改革の火蓋を切った年。プロテスタントムーブメントの500年を記念してのものらしいです。


我々は聖書と言うものを通して、自分たちの考え、習慣、信仰などをカリブレーション(基準となるものと比較して、正しい状態になるよう測定・調整するプロセス)していかなければならない。聖書が唯一正しく我々の信仰をカリブレーションさせるためのもの。周りのクリスチャンたちの言葉ではない。神の言葉である聖書だ。私たちが信じているのはキリスト教。何々牧師教でもなければ、何々教団教でもない。だから私たちの信仰は、神の教え、キリストの言葉である聖書がベースになるべき。たとえ相手100人対こちらが一人であったとしても、神の言葉である聖書でそう言っていれば、こちらがマジョリティーなのだから。たとえ誰かが神学教育のマスターやドクターを持っていたとしても、その人が言っていることが聖書と食い違っていたなら、その人が間違っている。聖書よりも高い権威はないのだから。

コメント


© Copyright Irvine Japanese Christian Church
bottom of page