タッキーのやっぱり聖書でしょ
- Rev. Jun Takii
- 20 時間前
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今年の年間聖句にヨハネ3:16を選び、礼拝でのメッセージではヨハネの福音書をこれまでやってきています。それは、「信仰による救い、ただ信じるだけで救われる」、ということについて皆さんに再認識・再確認していただきたいという思いからです。
なぜなら、「救われるには信じるだけ、なんてそんなこと言っても、いくらなんでもさすがに救われる為には○○はする必要はあるでしょ」という、もっともらしいことを言う人たちがキリスト教界にはいるからです。
人が天国に行く為には、宗教は「Do(何かをしなさい。自分の行いによって天国に行く努力をしなさい)」と言い、それに対してキリスト教は「Done(全てはイエスが完了した。だから、ただ信じ受け入れるだけ)」と言います。我々人間が持つ神に対して負っている負債を、イエスが十字架の上で完済してくださったわけです。
イエスの十字架の上で死ぬといういけにえが神に受け入れられたということを示すのが、復活です。イエスの犠牲が、私たちの罪のいけにえとして十分であった、罪の罰の支払いが完了したことを示しています。
また別の例として、昔の神殿の中には神と人との隔たりを示す大きな幕がありました。この神殿の幕は、聖所と、神の栄光(契約の箱)が置かれた最も神聖な部屋である至聖所(しせいじょ)を区切る物理的な壁でした。この幕は、高さが20メートル、幅が10メートル、厚さが10~20センチと言われ非常に大きなものでした。イエスが十字架で死なれた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた(マタイ27:51)ことで、古い契約から新しい契約になったことを意味しているわけです。律法を成就、完成させたのがイエスで、人の罪はイエスが全て支払い終わったということです。まさにグッドニュース、福音ですよね。しかし、その裂けた幕をまた縫い合わせようとして、律法に逆戻りするのが宗教です。それをするともう福音ではなくなり、再度律法全体を行う義務が生じて、恵みから落ちてしまうのです(ガラテヤ5:3-4)。呪いとなってしまいます(ガラテヤ3:10)。
人と神の間にあった隔たりを象徴する幕を神が破ってくださったのに、その破れた幕をまた縫い合わせようとする(自分の行いによって神の前に正しくなろうとする)のが宗教です。それは、しないようにしましょう。
バイブルスタディの方はガラテヤ書に入って行きますが、ガラテヤ書は本来の福音(グッドニュース)であった「恵みによる救い、信仰による義(行いではなくただイエスを信じるだけで救われる)」から少しずれてしまって、「他の福音、別の福音(昔のモーセの律法もやっぱり少しは大切でしょ、と行いを強制するような教え)」を言い出す一部の人たちがいたガラテヤの教会に書かれた手紙です。
パウロはガラテヤ書にてハッキリと言います、
「人は律法を行うことによってではなく、ただイエスキリストを信じることによって義と認められると知って、私たちも(パウロのようなユダヤ人たちも)イエスキリストを信じた。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められる為。というのは、肉なる者は誰も律法を行うことにょっては義と認められないのだから(ガラテヤ2:16)」
「もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味になってしまう(ガラテヤ2:21)」
ガラテヤの諸教会で起こっていた、「他の福音、別の福音」に流れていくという誘惑は、今でもあります。どうか、譲歩したり屈服したりせずに、福音の真理が我々もとで保たれるようにしていきましょう(2:5)。神の恵み、イエスの死を無駄にしないようにしましょう。

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