top of page

タッキーのやっぱり聖書でしょ

1 日前
読了時間: 4分

パウロの手紙の中でも、ピリピ人への手紙には、どこか他の手紙とは違った温かさを感じます。

パウロは他の手紙では時に非常に厳しいことを語ります。教会の中にある問題や、福音から外れていく教えに対しては、決して曖昧にすることなく、はっきりと語りました。しかし、そのようなパウロの手紙の中で、ピリピ書には特に「喜び」というテーマが繰り返し現れます。そしてもう一つ、私が心を打たれるのは、パウロの他者の伝道の動機の違いに対しての非常に寛大な姿勢です。

パウロは、自分の立場や名誉が脅かされることよりも、キリストが宣べ伝えられていることを喜びました。

ある人々は、純粋な思いからではなく、競争心や自分を誇る思いからキリストを伝えていました。しかし、それを知ったパウロは、「それでもキリストが宣べ伝えられているなら、私はそれを喜びます」と語ります(ピリピ1:15-18)。これは、私たちにとって非常に大切な姿勢ではないでしょうか。


キリスト教の世界では、教会や教団、あるいは教派によって、さまざまなスタイルがあります。礼拝の仕方、賛美の仕方、教会の文化、聖書の理解、聖書の強調点、あるいは教会を運営する方法に至るまで、実に多くの違いがあります。そして時には、その「違い」が理由となって、互いに批判し合ったり、距離を置いたり、いがみ合ったりすることさえあります。

私自身も、これまでそのような経験を何度かしてきました。今から15年ほど前、私はあるアメリカ人教会の中で、日本人ミニストリーを始めました。その当時、私は牧師としてではなく、一人の信徒としてこの働きを始めました。

すると、「良い働きですね!」と皆さん言ってくれますが、でもそれに続けて「じゅんさんはどこの神学校へ行ったんですか?」「牧師ではないのに、そんなことをしていいんですか?」というような批判を受けることがありました。ある日系のクリスチャン団体のリーダーの一人は、ご丁寧に私の所属していた教会の主任牧師のところに行って、「あなたは何でJunのようなごろつきに、日本語ミニストリーを任せているのか」と言ってくれた人もいました。

信徒としてミニストリーを数年やった後、牧師というタイトルを教会からもらったのですが、牧師になってからも私は「僕のことを先生と呼ばないでください」とよく言っていました。これは私なりのちょっとした持ちネタでもあり、これまでと変わらない一信徒として仕えていくという初心を忘れないつもりで言っていたのですが、ある時、パネルディスカッションという人前で某牧師から「牧師が先生と呼ばれて、何が悪いんだ!お前、何言ってんだ!おかしいんじゃないか⁈」と言われたことがありました。まさに、人前で公開処刑を受けたような気持ちになったことを覚えています。


スタイルの違いはあっても良いと思うのですが、私たちはなぜこんなにも「違い」に対して冷静さを失ってしまうのでしょうか。

もちろん、聖書の真理を大切にすることは必要です。聖書から外れてはいけない、ここはブレないでいきたいです。でも私たちの個性や性格が違うように、違った形のクリスチャンとしての表現の仕方もあっても良いのかと思います。


ミニストリーにおいて私たちの共通の目的は、イエス・キリストが伝えられることです。礼拝のスタイルが違ってもいい、強調点が違ってもいい、教会の文化が違ってもいい、賛美の仕方が違ってもいい。私たちの性格も、考え方も、趣味も、それぞれ違います、それと同じです。

それでも、私たちがイエス・キリストを愛し、その福音を伝えようとしているのであれば、そのことを互いに喜ぶことができるのではないでしょうか。

パウロは、自分と同じ方法で福音を伝えている人だけを喜んだのではありませんでした。たとえ動機に問題があったとしても、「キリストが宣べ伝えられている」という一点に目を向け、それを喜びました。これは、私たちにとって大きなチャレンジです。私たちはつい、「自分たちのやり方こそ正しい」「あの人たちは少し違う」「あの教会はこうだからダメだ」と考えてしまいます。しかし、そんな時こそ、私たちは自分たちが何のために存在しているのかを思い出す必要があります。

私たちが伝えたいのは、私たち自身ではありません。私たちの教会でもありません。私たちのスタイルでもありません。私たちが伝えたいのは、イエス・キリストです。


ピリピ書を読む時、私はパウロのこの寛大さに心を動かされます。「自分と同じであること」よりも、「キリストが伝えられていること」を喜ぶ。

私たちも、そのような者になりたいと思います。教会の違いを超えて、教派の違いやバックグラウンドを超えて、性格や考え方の違いを超えて、私たちの目をもう一度イエス・キリストに向けましょう。

そして、「なんなの、あの人は!自分とは違う」と批判的になる前に、「それでもキリストが伝えられている。だから私は喜ぼう」と、言える者になりたいですね。

コメント


© Copyright Irvine Japanese Christian Church
bottom of page